1958.11.23tyugoku
先人はみな勇敢だった
サルベージの先駆者 村井喜右衛門
先駆者
米使節ペルリの来朝より52年前の1798年、すなわち徳川幕府11代将軍家齊時代の寛政10年、長崎港外で沈没したオランダ船を当時としては驚異的な方法で引揚げ、広く海外に日本のサルベージ技術を誇った周防国、都濃郡櫛ケ浜―現徳山市大字櫛ケ浜―の村井喜右衛門の歴史的事実がこのほど喜右衛門6代目の子孫、同地酒造業村井醇郎氏秘蔵の記録によって明らかにされた。
この事実は「寛政美談」そのほかの和漢書籍のほかオランダ人ヘンドリック・ドーフの「日本回顧録」米人ハークスの「米国艦隊極東遠征記」など欧州の出版物にも一部記録されているといわれるが、もっとも詳しく記録されている村井氏所蔵の「蛮喜和合楽」からわが国サルベージの先駆者喜右衛門のたてた偉業を回顧してみよう。


己一人の恥ならず
見事引揚げたオランダ船
寛政異学の禁、外国船撃攘令が布告され「海国兵談」の著者林子平が処罰された寛政年間(1789〜1800)はいわゆる鎖国時代であったが、周防の国徳山毛利藩7代の当主就馴は早くから貿易、開さく事業を奨励し、喜右衛門も(櫛ケ浜の領主は本藩の宍戸氏であるが隣接する徳山)藩主の意図に従って長崎港口香焼島を本拠に手広く干しイワシの買入れ販売の廻船を業としていた。
当時幕府の鎖国政策に従いオランダ船のみ貿易を許されていたが寛政10年10月17日のアラシの夜、銅、しょうのうを積んで出港しようとした一オランダ船が長崎港外唐人ケ瀬で座礁、木鉢浦まで引き寄せたが沈没した。

先駆者2
沈船引揚作業の記録図上

先駆者3
引揚作業を図解した記録図下
事の意外に驚いた当時のオランダ商館、長崎奉行はさっそく引揚作業を講じようとしたが長さ23間、幅6間、約6000石積の大船で大砲36門と数万斤の輸出品を積んでいるため当時の引揚船技術では手のほどこしようがなく、積荷の引揚だけでもと試みたが積荷のしょうのうが海水にとけて窒息の危険があり作業に当った2人が水死するといった失敗に終り処置に全く窮してしまった。

浮力に使った漁船76隻
これを聞いた喜右衛門は“我に策あり”と無償で引揚げの難事業を買って出た。無謀ともいうべきこの申出でに人々の好奇と疑惑の目が集中されたが、彼は“万一不成功に終らばおのれ一人の恥辱のみでなく、西洋にまで日本の不名誉をさらすことになる”と悲壮な決意と覚悟をもって寛政11年正月17日から作業の準備にかかった。
彼の考案は潮力と風力を巧みに利用したもので、まず沈船に大ロープ3本をかけこれからさらにクモの巣のように規則正しく小ロープの枝を出して76隻の漁船につないで浮力とし、さらに各船は白帆を用意して運搬力とした。
かくて準備に20日間を要し翌2月8日朝の潮が最高に達したとき、沈船は見事に浮上がり、時をすかさず打上げたノロシを合図に各船は一斉に帆をあげ、折からの順風をうけて一気に浅瀬に運び難事業を成し遂げた。
この事業に彼は金500両を投じたがオランダ商館や長崎奉行が支払おうとした補償は一切受けず、ただ長崎奉行から銀30枚、幕府から感状、それにオランダ商館から当時の貴重品白砂糖20俵を受けたのみと伝えられている。
この時引揚げられた船はオランダ船と伝えられているが一説には米国船エリザ号で当時バタビヤ戦争のためオランダは英国と敵対していた。従ってオランダ船の航行は危険率が高く、船長スチュアートが同船ををチャーターしたもので、わが国を訪れた最初のアメリカ船(村上直次郎著、日蘭300年の親交)とも伝えられている。


村井喜右衛門