ヅ−フ日本回想録2
ヅ−フ肖像画 |
エリザ号座礁の顛末
ウイリアム・ロバート・スチュアートがその船エリザ号を喪失した顛末は、特に記憶するべき価値がある。彼が1797年にゼ・エリザ・オブ・ニュ−ヨークという船で行なった航海は大いにその雇い主の満足を得たので、1798年にも同船は再び雇い入れられた。
ところが、その時事務主任ラスの尽力によって、帰航の貨物の積み込みも終り、書類もすでに船に送った後、同船は俄の嵐で錨を切って暗礁に乗り上げ、潮水に浸されてしまった。銅は日本の潜水夫によって引き上げを試みたが、樟脳が溶解して毒ガスを発散したため、2人の潜水夫は命を失ってしまった。
エリザ号引揚。竹棹で綱を入れる図
喜右衛門浮き上げを試みる
そういうわけでこの方法を断念して、船を浮き揚げて海辺に引き寄せ修理しようと計画した。けれども総ての努力も効果なかった。そこへ周防国都濃郡櫛ケ浜の素朴な漁夫に喜右衛門という者がいて、浮き揚げを成し遂げることを約束して、幸いに成功すればその実費だけを申し受け、失敗の場合は全然費用を請求しないと申し出た。
恐らく生来初めて欧州船を見たこの人は心無い人々に嘲笑されても少しもこれに屈せず、我らの船が入港のとき引き船されるように、船の両側に15乃至17の小船を結び付け、支柱によって各船を連結した。そうして大潮が高まったときに、彼は日本荷船で来てこれを座礁船の船尾に結び付けた。こうして満潮となるや、諸小船及び彼の乗った大船皆一斉に帆をあげたので、重荷を載せて深く沈んだ船も岩礁から浮き上がり(初めて浮き上がったのは寛政11年正月29日)老練なる漁夫によって平の浜辺に引き寄せられ、これによって荷卸しも修繕も容易にできることになった。
エリザ号引揚仕掛け図
浮き上げ成功する
喜右衛門はその費用の弁償を得たのみならず、毛利侯松平大膳大夫は2刀を佩びること及びオランダ帽子と2本のオランダ煙管とをもってその紋章とすることを許した。これによって日本人は下層の者といっても、決して奇智と明敏とを欠かさないことを観るべし。
(オランダ人から謝礼として砂糖20俵を贈られ、奉行から褒美銀30枚下さる。また松平大膳大夫毛利侯から永代帯刀を免許され裃を拝領する。)
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