東京外国語学校校長
兼史料編纂官

村上直次郎著
日蘭300年の親交

表紙 奥付

東京 冨山房発兌
大正3年12月発行

66ページ〜68ページ
オランダ本国政変の影響

出島

貞享以後、出島の商館は、漸次貿易を縮少せられたる外、極めて平穏無事にして、其の間ケンペル、ツウンベルグの両医員、日本滞在中に研究見聞したる所を、帰国後世に公にしたることを除きては、特に揚ぐべき事件なかりしが、第十八世紀の末年に至り、仏国革命前後より、欧州は漸く多事となり、オランダ本国は仏兵の侵入を受け、1795年には、国王英国に逃れ、オランダ国は、政体を改めて、バタビヤ共和国となりて仏国と同盟し、英国と交戦するに至れり。

是に於いて東洋航海の商船も、自国々旗を揚げたるものは、英艦に捕獲せらるゝ恐ありしが故に、東印度会社はしばしば米国船を使用せり。米国船の我が国に来りしは、寛政9年(1797)長崎に入港せし船長キャプテン・スチュワルトの船をもって始とす。同船入港後、乗組員の蘭語を用ひず、英語を用ひし為め、奉行の怪しむ所となりしが、オランダ商館長が、該船は会社の借入れたるものにして、船長以下乗員は英語を話すといへども、英国人にあらざる旨を證明して貿易を許されたり。


模型同船は、翌年も渡来し、帰航の際、高鉾附近に於いて、暗礁に触れて船底を破り、次いで沈没せり。因って潜水夫をして、先づ積荷の銅を取出さしめ、然る後船の引揚を計らんとせしが、船内の樟脳溶解せし為め、潜水夫の窒息するものありて、銅の引揚をなす能はず、オランダ人は大に困却せり。是時周防の船頭村井喜右衛門といふもの同所に在り、工夫を廻らし、百餘艘の網船を用ひて船を引き揚げたれば、オランダ人は砂糖二十俵を贈りて之を勞ひ、奉行も亦厚く喜右衛門を賞せり。該船は之に修繕を加へて、翌年五月下旬、ジヤバに向ひしに、復た暴風に遭ひて帆を失ひ、再び長崎に帰りて修繕を加へ、然る後出帆せしが、不幸にして、途中終に難破せりといふ。


喜右衛門2へ戻る

喜右衛門9へ戻る