ぺルリ提督日本遠征記
a simple fisherman
序論
第6項 日本における産業技術の進歩と文明の範囲
科学的知識及びその適用
(前略)ある日本漁夫の器用さと才能とに関するより注目すべく、また遥かに信ずべき他の例は出島のオランダ人の記録に記されている。それはヅ−フ氏の管理中に起ったことであった。バタヴィアのオランダ人は、戦争中イギリス巡洋艦を怖れること多大だったので、毎年日本へ向けて自国の船を派遣することができなかった。そこで一度ならず、アメリカの船舶を雇傭したのであった。その一艘が出島において何時もの通り銅及び樟脳の荷を積んで夜中に出発したが、港内の岩礁に衝突して水が一杯になり、沈没してしまった。乗組員はボートで海岸に到着し、また長崎当局、オランダ商館及びアメリカ船長は全部、同船引き揚げの手段を考究することになった。数人の日本潜水夫が銅を引き上げるために潜水させられたが、樟脳が溶けてしまって、その溶けた樟脳の臭気のために二人の潜水夫が生命を失ったのであった。そこで同船から積荷を引き下ろすという考えは放棄された。それから、そのままで船を引き揚げようと努力されたが成功しなかった。
エリザ号引揚仕掛け図
きえもんKiyemonという一人の素朴な漁夫a simple fishermanがあった。彼は長崎に住んでいなかったので、ヨーロッパで建造された船を見るのは生涯に初めてだったのだが、作業費だけを支払ってくれるならば、同船を引き揚げようと約束したのであった。人々は彼の自惚れを嘲笑したが、他に望みのない場合だったので、興味を持った人々はその試みを行なうことを許したのであった。彼は、干潮の時その船の両側へ、入港するオランダ船を曳くのと同じような小船15、6艘を結びつけ、全部を柱と大索でしっかりと結び付けた。それから潮のさして来るのを待って、沈没船の船尾にしっかりと結びつけた日本の沿岸貿易船に乗り込んだ。そして最も満ちた瞬間に、全部の小船に帆を張った。沈没船は浮き上がって岩から離れ、その漁夫に曳かれて海岸に着いた。そして積荷が下ろされ、修繕されたのであった。
出島図 川原慶賀
彼は手厚い報酬を貰ったとフレッシネは言っている。彼の報酬というのは二本の刀(それは高い身分の表章である)を帯びるのを許されること及び武装としてオランダの帽子と二つのオランダの煙管を携帯するのを許されることであったということを知るならば、読者は興味を覚えるだろう。彼がその身分を保つための金銭を貰ったということを聞かないのである。オランダ人及びアメリカの船長はそれを提供したことだろう。もし事情が逆であったならば、そしてオランダ人またはヤンキーが日本人のために船を引き揚げてやったならば、二本の刀とオランダ帽及び二つの煙管とでは、このような価値ある働きに対する報償としては甚だ不十分なることが、早速日本人に告げられたことであろう。極めて無欲なきえもんの代わりに、あの日本の人魚造りが成功したのであったならば、これで満足したかどうかと思われるのである。
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