17、8才の頃、自家立て船を作り、自立して村井姓を名乗った喜右衛門は、大成して、ペリー提督をも驚かすような偉業を成し遂げた。その始終を年譜の形式にして述べる。 オランダ船出帆祝砲 元禄 9年1696 喜右衛門大叔父、山本市兵衛生まれる。 正徳元年1711 この頃、市兵衛船乗りとなる。 享保 4年1719 この頃、市兵衛白石島開竜寺弘法大師堂へ参篭する。 寛保元年1741 『防長地下上申』の櫛ケ浜船数の部に「37艘のいさば(小型廻船)年分九州表へ罷り越し、諸商売仕り候」「漁船45艘の内九州五島にて、いわし漁仕る分もある」との記載がある。 宝暦 2年1752 喜右衛門生まれる。 同 6年1756 市兵衛没する。(60歳) 同 8年1758 喜右衛門の弟、亀次郎生まれる。 明和 7年1770 17、8才の頃自家立船(いさば船程度のものか?)を造り、父方の村井姓とする。 安永 4年1775 喜右衛門の父、弥兵衛亡くなる。 同 8年1779 この頃、喜右衛門香焼島に進出、漁業奨励、主漁場は栗ノ浦と思われる。 寛政 3年1791 栗ノ浦墓地に防州櫛ケ浜住人の最も古い墓碑あり。(無名・御地蔵様造り・花崗岩) 同 7年6月防州遠石八幡宮へ石燈籠寄進。「奉献櫛濱村井屋喜右衛門・亀次郎」(2基現存) 同 8年1796 喜右衛門の弟、音右衛門没(29才)墓碑…長崎深掘円城寺・原江寺(現存・花崗岩) 同 9年1797 喜右衛門毋、おきよ亡くなる。 同 10年1798 10月17日夜長崎湾口神崎沖で、出航待ちしていたオランダ船(アメリカからの傭船)エリザ号「壱万石積なり、積み荷は色々ある中に銅主なり、乗り組95人」が「夜中大風となる。碇引けて唐人瀬と言ふへ流れより船底を損じ水込みとなる」「浦々より漕ぎ船出て木鉢ケ浦の沖へ漕ぎすえける。沈船は汐干には2、3尺出るとなり」となった。 長崎奉行高札を立て沈船を引き揚げる者を募る。 同月29日喜右衛門最先に「浮かし方」を申し出る。 長崎奉行「長崎地下に一人なからんかと、御高札立て替えなされ、喜右衛門にはまづ見合わすべし」とのことになった。 長崎の知恵者2人(田中・山下)応募、試みるが不成功。 オランダ人浮かし方申し出で、試みるが失敗する。 長崎奉行喜右衛門に引き揚げを依頼。浮かし方の計画書、雛形を提出させ、必要経費を問い合わす。 和蘭陀屋舗図1798年以前 同11年1799 正月11日「このたび浮かし方の雑費その外諸道具仕構ひこれあり候や、と尋ねられ候に付き、喜右衛門申し候は、先達て申し上げ候通り、雑費入りのところは何程懸り候ても御上え御奉公仕るべく覚悟に御座候。もっとも諸雑費用途をたって御尋ねに付き、あらまし申し上げ置き候。私抱への内、400石積18反帆1艘、200石積13反帆1艘、5、60石より40石までの小船7、80艘、私抱へ人数常に300余人これあり、家内子供懸りては5、600人も御座候。諸道具等も私抱への内にこれあり候。雑費入り銀およそ5、600両と考え居り候」と申し上げる。 正月14日浮かし方御免の申し渡しあり、すぐに肥前領、大村領の網方支配人、船頭合計20人、手下の網子420人へ集合の触れを廻した。 同15日浮かし方御免の御手形頂戴。浮かし方取り懸り中御用小指し、御灯燈あい用ひ候儀を差し免ぜらる。 (引き揚げ完了までの詳細な記録があるが、割愛) 同29日初めておよそ5、6尺上がる。この間昼夜兼行2月1日より上げ方に懸る。 2月3日までに都合9尺より1丈程上がり、網船75艘、大船2艘にて釣り上げ、それ等の船に残らず帆を懸け、オランダ新屋敷下の作業場まで、曳航した。 同6日までに、およそ8分方上がり、オランダ人が作業に取り懸った。 同20日までに「浮き方あい調い、これまで人力およそ13000人」 同21日長崎奉行より褒賞、銀30枚。 同22日オランダより進物として、ふらすこ徳利14、いずれも酒入り。 3月12日喜右衛門の帰国御免。 同21日「沈船浮かし方一條花岡御勘場より御尋ねに付き」文書をもって委細報告。 3月萩藩郡奉行より褒賞、永代名字帯刀御免。 同月給領主宍戸家より褒賞、御上下頂戴、身通り御領分百姓惣筆頭を差し置かる。 4月幕府老中松平伊豆守から長崎奉行を通じ賞詞。 同夏 オランダ人から白砂糖20俵贈られる。 同夏 中川某、オランダ沈船引き揚げの行状をことごとくしるし『蛮喜和合楽』と題して、上中下3枚の画図を挿入の上木版刷りにする。 村井家にはこの一冊が大切に保存されているが、村井家で書かれた『蛮喜鍛煉書』と合わせて、喜右衛門研究に不可欠の史料となっている。 享和 2年1802 栗ノ浦墓地に笠戸屋久兵衛の墓碑。 文化元年1804 喜右衛門没53歳。(墓碑・原江寺に現存) 同 7年1810 牧墨僊『一宵話』「和蘭の沈ミ船・付きたり村井喜右衛門が働き和蘭陀国へ鳴りひびく事」 文政 3年1820 10月27日山田時文選『村井信重伝』 同 4年1821 2月時文、喜右衛門肖像画(朝倉南陵画)に賛。 天保 4年1833 ヘンドリック・ヅーフ(元オランダ商館長)『日本回想録』「エリザ号座礁の顛末・喜右衛門浮き上げを試む」を著わす。 天保 6年1835 亀次郎没77歳。(墓碑・原江寺、香焼町浦上墓地に現存) 同 8年1837 志賀忍『理斎随筆』「村井喜右衛門といへるもの、智功をもって船を挽き上げたり…」 同 13年1842 『風土注進案』櫛ケ浜浦の部に、喜右衛門快挙の一條を詳細に記載。 安政 3年1856 『ぺルリ提督日本遠征記』(岩波文庫より要約) アメリカ遠征隊が母国の岸を離れる前に世界の人々の有していた資料を概観したいと思ふと書き出しがある序論の「科学的知識及びその適用」のなかに、オランダ船引き揚げの顛末が詳しく述べられている。その中に、 「或る日本の漁夫の器用さと才能とに関するより注目すべき例は出島のオランダ人の記録に記されている。 kiyemonと云ふ一人の単純な漁夫があった。彼は長崎に住んでいなかったので、ヨーロッパで建造された船を見るのは生涯初めてだったのだが、作業費だけを支払ってくれるならば、同船を引き揚げようと約束したのであった」等とある。史実とはやや異なるところもあるが、喜右衛門は、ぺルリの日本人に対する認識に少なからぬ影響を与えたことであろう。 |