(2)萩藩からの褒賞


萩表褒状a
萩表褒状b
萩表より御書下
都濃郡櫛ケ浜          
宍戸美濃殿知行所      
百姓 喜右衛門    

右、去る秋帰帆の阿蘭陀船、長崎沖浦上村木鉢郷にて沈船相成り候に付き、浮かし方の儀、長崎奉行所において種々仰せ付けられもこれあり候え共、浮かし方出来かね候ところ、そのみぎり、喜右衛門こと、かの地商売方に付き、参り合わせ候て、紅毛人より相頼み、喜右衛門心遣いをもって浮かし方相成り、紅毛人は申すに及ばず、長崎表一統安心満足の由。これにより御奉行朝比奈河内守殿御役所に呼び召され、御褒美として銀30枚下され候由、河内守殿よりかの者抜群手柄仕り候段御知らせ申し来り候。肝要の場所において比類なき手柄せしめ神妙の至りに候。これにより格別の御沙汰をもって、永代名字刀共差し免ぜられ候条、この段御申し渡しあるべく候。以上
  寛政11未3月
                 矢嶋作右衛門(郡奉行)
     山崎新八殿(花岡代官)

(3)宍戸領主からの褒賞

村井喜右衛門

その方儀、今般長崎において紅毛船浮かし方の儀に付き、比類なきの手柄せしめ候趣き、聞こし召し上げられ候。よって褒美として御上下これを下さる、なお身通りの儀は、御領分百姓惣筆頭差し置かれ候こと
寛政11未3月

(4)村井喜右衛門肖像画賛読み下し文


喜右衛門肖像画
喜右衛門肖像画
これを故村井喜右衛門信重の像なりとなす。その嘗て世に在るや、蘭人のため沈船を浮かして、功名を四方に播く、衆の知るところなり。嘗てその子弟に対して訓戒の言あり、この像成って後、令胤正豊の請に応じ、これに就いて書を題す。その言に曰く。一盛一衰、人必ずこれあり。その衰運の時に当っては、必ず当にその旧宅を減省して、もって堵(垣)室蠖屈(尺取り虫がかがむこと。人がしばらく退き隠れるさま。)をその中に做すべきなり。これまた、そのはじめの始術なり。また親を承け、家を興すの後は、天性怜悧なりといへども、自ら当に至らざるところあるを知るべきなり。およそ人の行いは正直にしくはなきなり。しかりといえども、直に過ぎればすなわちあるいは人の瑕疵をあばく、けだしまがれるを矯すに直に過ぎるは、古人の戒むるところなり。心にこれを考え、そうして後もって敬を神明に致すべきなり。また先世(先人、亡き父)未だ相好まざる人あり、己れその人と相親しみに至る、これ孝の一端なり。また親戚に無論、他人なるといえども、先世相親しみ善の人意にあらずして相ひ侵すことあるをもって小忿に忍びず、その人と交を絶つは不孝の甚だしきなり。これよろしく情恕(ゆるす)すべきなり。違負あるべからず。これ人の要道なり
既に前言を書して加ふるに賛をもってす、賛に曰く
孫謀(子孫のために100年の謀を立てること)永く貽す(のこす)、後嗣維栄ふ、あに啻厥の(ただその)身功名を発揚するのみならんや
文政辛巳(4年)春2月山田時文拝賛

*山田時文 三丘宍戸学館徳修館初代館長
(喜右衛門孫正純来山は3代目館長)

(5)オランダ船引き揚げの模型

この模型は、徳山地方郷土史研究会創立20周年記念行事の一つとして、平成10年5月23日徳山市に寄贈され、中央図書館に展示されているものである。模型製作は、香焼町徳永町長を通じて同町の梅原喜一郎氏に依頼され、「海事史研究」に掲載されている片桐一男博士の「村井喜右衛門の沈船引き揚げ絵図資料」を基に極めて精巧に作られている。
引き揚げ模型1
梅原喜一郎作「オランダ沈船引き揚げ模型


おわりに

徳修館2村井喜右衛門に関しては、すでに優れた研究書があるので、本誌面では喜右衛門自身に関する記述は簡略にし、この分を喜右衛門前後の記述にあてた。従って、喜右衛門とは直接関係のない櫛ケ浜に関する記述が多くなった。櫛ケ浜が三丘宍戸家の給領地であったことに免じて御了解願いたい。本原稿の主要部分は両村井家所有の史料によったもので、随所に原文をそのまま挿入したため、読みにくい文章となったことをお詫びしたい。
私に秘蔵の文書閲覧の便宜を与えられた本家村井故一貫氏、酒場村井洋一氏、及び文書解読等に協力戴いた方々に感謝する次第である。

来山書

来山書1 せいろかんなんいちしゅしょう
世路艱難一酒觴
世俗の艱難を一杯の酒に紛らせて来たが
にもうあいえいじしゅうそうをみる
二毛相映見羞霜
気がついて見ると頭には白髪がみえる
ふけんこうがなんけんひくし
負喧高臥南軒底
晩春の日溜まりにごろねして見ると
へんせつしゅんこうちくようかおる
偏泄春光竹葉香
木の葉を洩れる春の光が匂うばかりである

村井来山の七言絶句です。この様に読んでみました。
解読 藤井彌


来山書2恭在不侮人 徳在不奪人
恭あらば人侮らず 徳あらば人奪はず  来山書

おわり

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