(2)西洋は大乱、日本は泰平 村井喜右衛門が長崎湾口に沈没したオランダ船を引き上げたことは、和漢数10種の書籍に伝わっているがその大体の本末は、村井家に持ち伝えている「蛮喜和合楽」と題する写本が、比較的正鵠を得たものと信ずる。 ヘンドリック・ヅーフの「日本回想録」や、フランシス・L・ホークス著の「米国艦隊極東遠征記」など、西洋の出版書にも出ているが、それには喜右衛門を肥前の人としるしてある。 これは喜右衛門の本国が周防であるということを知らずして、ただ喜右衛門が肥前領の香焼島に本拠を構えていて手広く干鰯の買入れを業とし、喜右衛門を親分と仰ぐ船頭や網子なども、多くは肥前領に住所を持っていた故に、喜右衛門を肥前の人と誤り伝えたのである。 また喜右衛門の事跡をしるした日本版の諸書にはいずれもオランダ船を引き上げたと書いてあるが、その実は北米合衆国のニューヨークに船籍を持っていたエリザ号であった。村上直次郎著述「日蘭300年の親交」と題する書には、このエリザ号を以て日本へ渡来した最初の米国船であるとしるしてある。
言うまでもなく徳川幕府の対外方針は、厳重なる鎖国であって、独りオランダに対してのみ特別の恩恵として、長崎の出島に貿易商館を設置する事を許し、その国の船舶に限り入港することを得せしめていたのである。 然るにオランダ本国の事情は、フランス革命の影響を受けて、俄然大変化を見るにいたり、オランダ国王は難をイギリスに避け、西暦1795年(寛政7)に、王国たりしオランダは政体を改め、バタビヤ共和国を建設するにいたり、フランスと同盟してイギリスと交戦することとなった。 イギリスはもとより海上王であるから、もし海上に敵国の国旗をひるがえした艦船を見るときは、勝手に一々捕まえるのである。元来オランダの東洋貿易は、東インド会社を中心として、自国の船舶を諸方に派遣していたのであるが、イギリスを敵とするにいたりて大打撃を被り、やむを得ずアメリカ船を用いるにいたったものと思われる。 |