ぺルリ提督日本遠征記(マ−メイドメーカー)


日本遠征記表紙 序論
第6項 日本における産業技術の進歩と文明の範囲
科学的知識及びその適用
(前略)フィッシャーもまた日本の一漁夫の器用さについて語っている。多分現在では、その標本を我国で見ることができよう。日本人は、活発な気性を有する多くの他の人民と同様に、珍奇なものに対する強い好奇心を有しており、しばしばはむしろ瞞着されるのも辞さないのである。この好奇心に乗じたかの漁夫は、普通に検査したのでは判らぬ程非常にきれいに、猿の上半身を魚の下半身へ結びつけることを工夫したのであった。
それから彼は、珍しい動物を網で生け捕りにしたが、その動物を水から引き出したら忽ち死んでしまったと報告し、村の人々を誘って来てその不思議な動物を見せたのだと思われる。彼は人々の信じ易いのに付け込んで相当額の銭を儲けた後、最初の物語を変えて、その動物がまだ生きているうちに、この不思議な動物は2、3度自分に話をしてくれた(日本語で話をしたのか、フィジーFee-Jee諸島の言葉でしたのかについては語らなかった)。
人魚図1そして何年か大漁が続くと云うことと、その後またはそれと時を同じくして、極めて危険な伝染病が流行することとを予言してくれたと語ったのである。そしてその伝染病に対する唯一の救済方法は、半人半魚の海の怪物の画像を持つことであると語った。そこで人魚の絵が需要されてその販売高は莫大なものであった。
やがて、この事件が日本国内で十分に利用し尽くされた後、この人魚、あるいはむしろ人魚に似せて作られたものが出島のオランダ商館に売られ、次の便船でバタビヤに送られた。この地で「世界的なヤンキー人」たる投機的な吾が同胞の一人が苦心してそれを手に入れて、その後ヨーロッパに赴き、同地で1822〜23年に一部の商店主及び見世物師に本物の人魚と云ってそれを見せて甚だ成功し、かくして博物学上論争されていた問題を落着させ、同時に自分のポケットをふくらましたのであった。
この人魚というのはニューヨーク博物館の蒐集品に光彩を添えているものと同じものであると思いたいのである。もしそうでないとすれば、かの日本の漁夫は、そのフィジーの怪物を産んだ親人魚をも提供してくれたのである。(露見しないように、非常にうまくたくらんだのであった。)(後略)

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