清木素著
防長歴史探訪第4巻
オランダ船引き揚げ
喜右衛門寄進灯籠(徳山市)
徳山市遠石の地、小高い丘の上にある古社遠石(といし)八幡宮を訪れると、その境内の一画に源平の合戦にゆかりの伝承を持つ洪鐘が吊されているのが目につくが、その左側に櫛ケ浜の人村井喜右衛門とその弟が寄進した灯籠がある。つい見逃してしまいがちであるが、寄進者村井喜右衛門のわが国におけるサルベージの草分けともいうべき事跡は、単なる地域史を超えて高く評価されるべきであろう。
蘭船図絵馬
寛政10年(1798)10月、オランダ船(実は、オランダがチャーターした米国籍船、6000石積)が長崎港外で沈没したのを、潮力と風力を実に巧みに利用して、34日間を要して見事に浮上させたのがこの村井喜右衛門であった。
喜右衛門は徳山市櫛ヶ浜の廻船業者で、長崎の香焼島に仮屋を設け、毎年長崎の島々、浦々へ鰯の買い付けに行くのを常としていた。生来利発であったのだろう、「市兵衛叔父さん(大叔父、山本市兵衛)は力で名をあげたが、私は知恵を磨き父、母を光らせたい」というのが少年喜右衛門の言葉であったという。
『蛮喜和合楽』という一冊の本があるが、これは村井喜右衛門が工夫と才覚をこらし、引き揚げに成功して同船を日本から無事船出させるまでの出来事を上中下3枚の絵を中心にした読物にまとめたものである。その中でも、喜右衛門が苦心工夫した引き揚げの手段方法が―本文にはほとんどこのことにはふれていないが―実によく描かれている。
当時この沈船引き揚げの評判は、日本国中はもちろん、遠く欧米諸国にも伝わり、村井喜右衛門の事跡が、海外においても相当の話題を引き起こしたらしく、『日本回想録』や『米国艦隊極東遠征記』にもふれられている。
遠石八幡宮本殿 | 恵比須社 |
この事故に際して喜右衛門が沈没船の引き揚げを奉行に申し出た。ところが最初は地元の者で引き揚げたいようであったが、万策尽きてついに喜右衛門に依頼することに決した。
ところが、喜右衛門は、国家への献金のつもりで、一切の費用は自力でするという。莫大な財力と人力を必要とすることは必至で、この引き揚げ作業を自力で行なうと申し出た喜右衛門がいかなる人物であるのか未知数である。奉行所は喜右衛門の提出したプランと雛型(模型)をただしたものの、なお安心することはできなかった。
現在、引き揚げのプランについての詳細な図面が長崎の県立図書館に収蔵されている。また、喜右衛門の子孫にあたる徳山市櫛ヶ浜の村井家からも、青山学院大学片桐一男教授らの研究によって数多くの新しい史料が発掘された。それらによって喜右衛門が準備したおびただしい資材の数々、約2か月にわたる準備、その間に動員された多数の船や人員についても驚くべき史実が判明している。例えば引き揚げ当日の最大動員数は600人の人員、150艘の船。指揮をする喜右衛門の手には、幕府からとくに作業中許可された“御用小指”である日の丸の小旗がはためいていたことも判明した。
大山形と滑車を組み合わせ、潮の干満を巧みに生かして引き揚げに成功した喜右衛門の知力、技術の正確さ。御用の小旗を打ちはためかせて、幾百人もの人数と数多くの船などを指導し続けた喜右衛門の旺盛な気力・体力は驚くほかはない。
喜右衛門の引き揚げ成功に、オランダは格別な喜びようで、オランダの酒入りフラスコを14本贈った。また翌年の夏、オランダ商館は当時では貴重品であった白砂糖を20俵余も贈って謝意を表している。
蘭船図焼絵
一方国内でも、長崎奉行は日本技術の権威にかかわる難作業が成功したことに対し、喜右衛門に銀30枚を贈って褒賞、老中からも賞詞を戴く。「誠に抜群の手柄、紅毛人は申すに及ばず、当所一統安心満足の事に候」とその労苦に報いた。
村井家にはいまもなおその折の褒賞状が保存されており、また喜右衛門が櫛ヶ浜に帰って藩公に提出した報告書の控えや、藩公から「名字帯刀」「百姓筆頭」を許可された古文書も大切に保存されている。
幼少の頃から父兄にしたがって九州と櫛ヶ浜を往来していたが、よく海路も知っており、その利発さは人々をしばしば驚かしたという。
自ら家業を始めてからは特に神仏の信仰が厚く、方々の社寺へ喜捨を惜しまないで、隣人はもちろん、交際していた人々の信望を一身に集めていた。
その仕事上、長崎市の神社などに多くの寄進をしているが、郷里の徳山市遠石八幡宮に寄進している灯籠も、喜右衛門の信仰心を示すものの一つである。喜右衛門の業績とともに、この灯籠も顕彰して行きたいものである。
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