再現日本史
郵便報知新聞

大正12年2月11日
関門日日新聞(13536号)


メダル 幕末の冒険児
長崎伊王島の開拓者
周防櫛ケ浜の豪族村井喜右衛門
メダルb


関門日日喜右衛門記事 平戸島や五島福浦など和蘭貿易の開祖地たり揺籃時代だった所ではあるが実際に於いて海上貿易の昂進と泰西文化の興隆は長崎から起ったもので宗教的の遺蹟や安政年間における日本最初の船渠であって今は三菱造船株式会社の付属工場として利用されているものなど総て文化的歴史の資料で充たされている。然もその間に介在して我山口県人の冒険的活躍児が長崎港頭に文明の先覚者として光輝ある遺蹟を残したことは我々本県人として肩身を広く感ずる。

 足利の末世

防長二州が大内氏の所領に属していた時代大内氏が宗教の自由を認めたため外人の往来が頻繁であり海外貿易は主として都濃熊毛方面を中心として行われたものである。この伝統的関係から大正の今日もなお朝鮮支那米国等の海岸に冒険的発展を試みて成功者となったものが多い此の都濃郡で今の太華村の櫛ケ浜に村井喜右衛門という豪族の冒険家があって跼蹐たる小天地に平凡な生活を送るを潔しとせず毛利氏の

 鎖国的方針

に反対し密かにその禁を破って支那印度南洋方面に羽翼を伸ばして溌溂たる活躍振りを見せていたが藩の有司の睨む所となり危険身に迫ったので一家を擧げて軽舸に身を託し長崎港外にある伊王島に着いた。此の島は薩摩の硫黄島と共に俊寛僧都の流謫地として本家争いをなし今もなお其の遺蹟として保存されているものがある。この島で山を拓き地を耕して島の始祖となり兼ねて此の地を根拠として海外に冒険的行動を起した寛政9、10年の頃長崎貿易の功労者たり産婆役であって日本と英領印度との間を交通していた有名な

 和蘭の商人 関門日日題字

スチュアートがチャーターした米国の巨船エリザ号が伊王島の木鉢浦の暗礁に触れて船底を破壊して沈没したことがある。スチュアートの方で極力これが引き降ろしに努めたが何分にも岩石深く噛み込んでいるので中々離れぬのみか潜水夫を入れて船艙の積荷を陸揚げして船体を軽めようとしたが其の荷物は銅と樟脳であってその樟脳のために潜水夫が窒息して働きが出来ぬので始末に苦しんでいた時わが村井喜右衛門が我に策ありとエリザ号の船体を大きなロープでグルグル巻として両方に15、6隻の漁船を浮べて本船と幾條の曳き綱で連絡を取り後に比較的大きな船を置きこれに

 滑車を装置

して船の後尾を浮べ両側の漁船の牽引力と相俟って美事にこれを浮揚せしめ海岸安全の地に曳き来った其の手腕は当時内外人を驚歎せしめたものである。其の引揚げ方法は現今における沈没船の引揚げ方法と全然一致しているのは喜右衛門が常に海外に往来してこれ等に大なる智識を持っていたためである。此の村井の一族は今も尚此の島に栄えて

 多大の尊敬

を受けている。喜右衛門は内務省技監原田貞助博士夫人の先祖であると云うので夫人は昨年の10月長崎に来て此の島に遺族を訪問して懐旧談を試みた。そしてエリザ号引揚げ当時の光景の絵図面は長崎図書館と伊王島にある遺族の内に珍品とし家寳として保存されてある。

(注)本文中「伊王島」とあるは「香焼島」の誤りなるべし。


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