喜右衛門は48歳の時、オランダ船を引き上げ、53歳にして病歿し、法号を功海院悟山心承居士といった。 死に先だつこと一ヶ月、早くも辞世の期の近づくを知り、あまねく一村の知人を訪問して別れを告げ、 遺命して実子正豊には主家宍戸の家臣たらしめ、村井の家は弟亀次郎に相続せしめた。 ゆえに櫛ケ浜に現存する村井家は、亀次郎より系統を引いて、当主醇郎に至ったのである。 ある新聞 に喜右衛門の遺族と称するものが、今も長崎の伊王島に栄えていると報じてあったので、村井家には同地を 取り調べ て見たが、ついに何の得るところもなかった。
エリザ号引き上げの図は、長崎図書館にあるものと、村井家に伝わるものと、やや趣を異にしているが、これは多分同一の事実を、異なる2人の手によって描き出されたものであろう。 著者 は喜右衛門の事跡を賛美して、下の7律1章を吟じ、本編の終りとする。 巨船沈水十余旬 隻手浮揚驚鬼神 乗浪鰲身遥現背 御風龍骨忽振鱗 施恩辭報恩無比 盡智救難智絶倫 誰料芳名傅海外 垂竿結網一漁人 巨船水に沈むこと十余旬 隻手もて浮揚せしめて鬼神を驚かす 浪に乗りて鰲身遥かに背を現わす 風に御して龍骨忽ち鱗を振るう 恩を施して報を辞す恩比なし 智を尽して難を救い智倫を絶つ 誰か料らん芳名海外に伝うるを 竿を垂れ網を結ぶ一漁人 |