喜右衛門は48歳の時、オランダ船を引き上げ、53歳にして病歿し、法号を功海院悟山心承居士といった。
死に先だつこと一ヶ月、早くも辞世の期の近づくを知り、あまねく一村の知人を訪問して別れを告げ、 遺命して実子正豊には主家宍戸の家臣たらしめ、村井の家は弟亀次郎に相続せしめた。 ゆえに櫛ケ浜に現存する村井家は、亀次郎より系統を引いて、当主醇郎に至ったのである。 ある新聞 に喜右衛門の遺族と称するものが、今も長崎の伊王島に栄えていると報じてあったので、村井家には同地を 取り調べ て見たが、ついに何の得るところもなかった。
喜右衛門墓 喜右衛門墓UP
村井喜右衛門の墓「功海院悟山心承居士」

亀次郎墓 徳山市史展
   村井亀次郎の墓    昭和16年11月15日・16日徳山市史々料展覧会出品目

エリザ号引き上げの図は、長崎図書館にあるものと、村井家に伝わるものと、やや趣を異にしているが、これは多分同一の事実を、異なる2人の手によって描き出されたものであろう。

著者 は喜右衛門の事跡を賛美して、下の7律1章を吟じ、本編の終りとする。

  巨船沈水十余旬
  隻手浮揚驚鬼神
  乗浪鰲身遥現背
  御風龍骨忽振鱗
  施恩辭報恩無比
  盡智救難智絶倫
  誰料芳名傅海外
  垂竿結網一漁人

巨船水に沈むこと十余旬
隻手もて浮揚せしめて鬼神を驚かす
浪に乗りて鰲身遥かに背を現わす
風に御して龍骨忽ち鱗を振るう
恩を施して報を辞す恩比なし
智を尽して難を救い智倫を絶つ
誰か料らん芳名海外に伝うるを
竿を垂れ網を結ぶ一漁人

<おわり>
   
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