一方、弟亀次郎の方であるが、亀次郎は櫛ケ浜の家業は養子(亀次郎妻の甥)市左衛門に任せ、本人は香焼島に定住して、喜右衛門の遺業を継いだ。市左衛門は、のち分家し、村井酒場繁栄の基礎を築いた。その名は天保3年の文書に宍戸御役付きと見える。 村井市左衛門母屋 浜田心仁さん撮影 酒場村井家には、文久元年「萩表より御奉書御改め仰せ付けられ候」節「紅毛船浮かし方一條控えなお御奉書色々御書下ケ写しともに廉々仕り出で前書の通り御座候」及び「市左衛門老衰により、御蔵元出伺相勤めがたく、孫市郎右衛門の代勤御免の願書」に「拝領の御上下着用せしめ、正月年始これまでの通り三ヶ日定日にして出伺」と提出した文書控えがあり、喜右衛門の「御領分百姓惣筆頭」格は酒場村井家に引き継がれたことがわかる。そのため同家にも、惣本家村井家と同等の証拠物が保存されており、その子孫が集めた多数の資料文献がある。 帰国した五郎右衛門の子に七之助があり、櫛ケ浜初代戸長、村長を務め、その間の明治32年から39年にかけて櫛ケ浜波止場を造築した。櫛ケ浜の漁民はその徳をたたえて、昭和22年原江寺境内に立派な頌徳碑を建立した。 |