1997(平成9)06.07(土)中國新聞

日本サルベージ界の先達
村井喜右衛門 交流縁結び
櫛ケ浜(徳山)と長崎県香焼町
町長ら訪れ祖先の墓参
村井喜右衛門の墓前で、説明を聞く徳永町長(右から2人目)

長崎沖で沈没したオランダ船を引揚げ、日本サルベージ界の先駆けと言われる、村井喜右衛門(1752―1804年)が結ぶ縁で6日、長崎県西彼杵群香焼町の徳永繁富町長らが徳山市櫛ケ浜地区を訪れた。


櫛ケ浜出身の喜右衛門は1779年から現在の香焼町周辺を漁場に、肥料用の干イワシを生産。1799年に、習熟した船の操作技術を駆使し沈没船引揚げに成功した。喜右衛門は櫛ケ浜に戻って亡くなったが、弟の亀次郎は香焼に永住。寄進の石灯ろうが地元に残っている。


喜右衛門の足跡をたどっている櫛浜郷土史研究会(浅田実会長、26人)が昨年秋、香焼町を訪問して交流。その返礼として、共に「村井家の末えい」という徳永町長と村井憲一郎助役が櫛浜公民館を訪れ、同研究会や連合自治会役員から「古里」の様子を聞いた。
続いて二人は、喜右衛門が眠る近くの原江寺に墓参。徳永町長は「祖先にようやくたどりついた気持ち。町でも祖先が櫛ケ浜周辺という人が多く、交流都市縁組を望む声もある」と話していた。

1997.06.09日刊新周南
●徳山●
香焼町から町長、助役
村井喜右衛門の墓参り


町長墓参
地区の人たちの出迎えを受ける徳永町長(左)ら
 徳山市櫛ケ浜出身で藩政時代の寛政11年(1799)に長崎湾口で沈没したオランダ船を独自の工法で引き揚げた村井喜右衛門が拠点にしていた長崎県香焼町から6日、村井家一族の子孫にあたる徳永繁富町長と村井憲一郎助役が徳山を訪問。櫛浜郷土史研究会(浅田実会長)の会員たちの案内で、久米の原江寺で村井家の墓に参り、市内を回って理解を深めた。 同町は現在は長崎市と陸続きで、三菱長崎造船所がある造船と自然の町。かつては島で、1770年代からは毎年、8月から5月まで喜右衛門ら周防から来る人たちのイワシ漁の基地になった。そのまま住み着く人もあって周防との結びつきは強く、喜右衛門の弟の亀次郎が寄進した石灯籠などは町指定文化財になっている。
 喜右衛門は昨年5月には徳山市中央図書館で喜右衛門を紹介する資料展が開かれ、オランダ船を引き揚げる周到で大胆な作業はヨーロッパにまで知られたことや、香焼町でも村井喜右衛門の事蹟が語り継がれていることなどから改めて関心が高まった。


櫛ケ浜で大歓迎


 このため、櫛浜地区では昨年11月、同地区連合自治会、地区社会福祉協議会、櫛浜郷土史研究会、婦人会などの合同研修旅行として37人が香焼町を訪れて大歓迎を受け、町職員の案内で町内を見学した。
 この日は住民団体の代表や市議など12人が櫛浜公民館で徳永町長らを迎え、いっしょに原江寺などを訪れた。また郷土史研究会員の竹島美雅さんが、喜右衛門の直系の子孫は、引き揚げの功績で櫛ケ浜の領主だった宍戸家に仕官し、宍戸徳修館の館長を務めるなど代々教育分野で活躍したことなど一族のその後の活躍を解説した。夕方からは、小川市長も出席して懇親会も開かれた。


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