市兵衛は喜右衛門の母方の大叔父に当るが、喜右衛門は市兵衛を敬い、度々墓に参り恭拝して「叔父は力あるをもって名を四海に残せリ、我はまた知恵工夫をもって名を天下後世に残したい」と言った。 喜右衛門を語るに当っては、この市兵衛・通称チク市兵衛とその時代背景を述べなければならない。 寛政10年戊午10月阿蘭陀船於唐人瀬沈船 同11年己未正月防州喜右衛門挽揚絵図上 (1)市兵衛について 略系図に示す通り、市兵衛は櫛ケ浜初代給領主宍戸元高の家来であった(郷土史熊毛第2号参照)山本喜左衛門の嗣子喜左衛門の次男として生まれた。在郷の家来の次男坊は船頭の路を志した。ちなみに山本家六代目瀬兵衛の身分は、永代大番通三人扶持である。 船頭とは廻船と言われる商売船の航海及び商売の最高責任者であり、他の廻船業者に雇われた船頭を沖船頭と言い、自前の船の船頭を直船頭と言った。市兵衛が目指したのは直船頭であった。 白石島連絡船プリンス丸 船頭になる路は厳しく、一般に14、5才の頃見習い水夫(カコ)炊(カシキ)になり、優れた者だけが知工(チク)表(オモテ)親司(オヤジ)の三役に昇進し、特別に優れた者が船頭となった。船頭になれば商売のかなりの利益配分にあずかれる。その中から自ら船主となり、さらに持ち船を増やし、豪商と成る者もあった。村井家には『山本市兵衛伝』が遺されている。 不動岩のくぼみに額を付け願い事をする、きえもん 市兵衛は、生まれつき力持ちであった。15、6才の頃船乗りとなり、摂津・播磨の間を航海していたが、22、3才のとき備前の白石島(岡山県笠岡市)の開竜寺の大師堂に参篭して、一倍力を授り「海中より大なる石を引き揚げ上がり、その石へ防州三田尻山本市兵衛と書いた。三田尻と書いたのは、櫛ケ浜が小村であることを恥じてのことである」と言う。ちなみに、この石は開竜寺の境内に現存し「周防三田尻の船頭市郎兵衛の力石」との案内板があり、また「市郎兵衛の力石」の民話が作られている。(岡山県小学校国語教育研究会編・『岡山の伝説』) その他に、次の逸話がある。 ○開竜寺に奉納した100本の杉の内10本が残っている。 ○赤馬関で、600石積ばかりの大船相手に帆柱を振るって怪力を発揮する。 ○肥前五島戎子浦で波止場築造に加勢する。 ○津出蔵の米20俵を一度に担ぐ。 寛政11年己未5月阿蘭陀船造作并村井喜右衛門漁場附海上風景中 |