陶と毛利の厳島合戦
徳山地方郷土史研究会の厳島合戦研修です。

小松内大臣平重盛公御手植え松
平清盛長男重盛公厳島弁財天の神徳霊験に感服し国家安泰・家門隆盛
祈願の為参籠の際に境内にお手植えになられた老松とある。

真言宗大願寺
慶応二年九月二日長州征伐の際勝海舟と木戸孝允等が
会談した部屋があった。

後白河法皇御行幸松 承安四年(1174)後白河法皇が参詣された折
お手植えされた松の遺木である。
明治初期に切り倒されたとある。

同じく後白河法皇御手植え松遺木

誓真釣井
誓真は伊予の出身で天明のころ厳島に来て神泉寺の番僧となり
竹林庵に住んでいた。飲料水の不足に苦しむ島民のために
各所に井戸を掘ったとある。

神獣鹿2

包ケ浦桟橋

神獣鹿3

毛利元就上陸之跡
弘治元年(1555)九月三十日、毛利元就は長男隆元、二男吉川元春以下二千余の本軍を率い対岸の地、御前火立岩(廿日市市)を折からの暴風雨をついて船出し、亥の刻(午後十時)包ケ浦に上陸した。

厳島合戦要図
一兵も失うことなく上陸を終ると、元就はこの浦の名を包ケ浦と聞いて「鼓は打つべきもの、最早敵は打たれたも同然」と駄洒落で将兵を励まし、直ちに水軍の将、児玉就方命じ兵船を全て廿日市へ帰させた。そして「我、今九死に一生の戦に臨む、幸に利あらば晴賢を得ん、もし利なくんば即ち死あるのみ」と文字どうり背水の陣を敷き、陶軍の背後にあたる博ち尾を目指して風雨漸く治まった夜半、全軍に進軍命令を下した。
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