村井喜右衛門2-2

池の燈籠
池の燈籠
楊子入れオランダ婦人
きえもんコレクション楊子入れ

 エリザ号はすなわち東インド会社へ雇われたアメリカ船であって、それが長崎へ第一次に入港したのが西暦1797年(寛政9)である。
入船
入船
 その頃の日本の国情を見れば、徳川11代将軍家齊(いえなり)の治世で、いわゆる弓は袋に刀は鞘に収まって、泰平爛熟の時代であるから、北アメリカの独立戦争も、フランスの革命騒ぎも、全く別世界の夢としていた。
 それでも今回長崎へ入港した船は、例年渡来するオランダ船でなく、船員の使用する言語も、オランダ語にあらずして英語であるということは、早くも長崎奉行所において疑問を抱き、厳重にオランダ商館へ掛け合うたが、商館の方では、船は確かにオランダの所属で、船長はオランダに雇い入れているアメリカ人であると申し立て、数回交渉の末にオランダ船として取り扱うことに許可せられた。
 それでなくてもオランダといえば西洋そのものかと思っていた時代であるから、当時の出版物にオランダ船引き上げとのみあって、船籍のアメリカに属していたことを知らなかったのも無理はない。
 船長もその実は、名前をウイリアム・ロバート・スチュアートというもので、何でもマドラスかベンガル生れのイギリス人らしかったのである。

角皿オランダ柄
きえもんコレクション「西洋浪漫」角皿

 さて、エリザ号は首尾よくその年の貿易を済ませ、無事に長崎を出港して、自分の根拠地であるジャバの西北岸にあるバタビヤへ帰った。無論長崎港内ではオランダの国旗を帆柱にひるがえし、一歩港外に出てからはアメリカの国旗に取り替えるなど、弱国の航海者は哀れなものである。
 その翌年すなわち寛政10年(1798)6月に、再び同船が長崎へ入港し、10月17日の夜に沈没の災難にあい、越えて11年(1799)2月3日正午に、村井喜右衛門がこれを引き上げたのである。引き上げたその船が、オランダ船にあらずして、アメリカのエリザ号であったことは、長崎奉行も知らず、徳川幕府も知らず、引き上げた当人の喜右衛門も全く知らなかったのである。
 その喜右衛門は肥前の人にあらずして、後年にいたり下関に砲台を築き、真面目に外国船を撃ち沈めんとした長州公の領民であったことは、アメリカ人もオランダ人も、共に意外な対照に驚いたことであろう。馬関戦争図 

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