ある日母に伴って祖先の墓を詣でた時に、母の口から「一倍力」の話を聞かされた。「一倍力」とは喜右衛門にとって大叔父に当たる山本市兵衛のあだ名で、その由来は次の通りである。
 市兵衛は舟乗りを業としていたが、身長も大きくなく腕力も弱いので、常に同輩に軽くあしらわれていた。それで備州白石島の霊窟にこもり、火食を断って37日の苦行を積んだ功徳により、異人より一倍力というものを授かった。相手が10斤をあげる力を以て打ってくれば、こちらの防ぐ力は20斤となって現われ、100斤の物をあげようと思う時には、自ら腕に200斤の力が湧いてくる。これが所謂一倍力である。
波止場
櫛ヶ浜波止場

市兵衛伝
一倍無雙力士碑文市兵衛伝
 この非常なる力を得た市兵衛は、ミミズの昇天するような心持となって、早速これを同輩との相撲に試みたが、誰も市兵衛にかなうものはない。ある時は4人連れの山賊を降参させ、ある時は狂乱した浪人の刀を奪って、苦もなくこれを打ち倒したこともある。
 市兵衛が力だめしの物語は一々ここに述べ尽くされぬが、その中で下関での出来事が、一番おかしかったと市兵衛も常に話していた。
 それはある船が下関港へ着いた時、船主も船員も久し振りに上陸し、某楼に押し上り飲めよ歌えよの大散財はよかったが、船主は財布の豊かなのを鼻にかけ、その席上で大いに市兵衛をののしった。かくて一同泥酔して船に帰り、前後も知らず寝込んだのであるが、さて翌朝になって一珍事を発見した。それは船主の寝ていた蒲団の裾が、その船の最も大なる帆柱の根元で押さえ付けられていた事である。
 船主はこの驚くべき戯事が、昨夜の悪口の返報として、市兵衛の腕によってなされたことを知って以来、市兵衛を敬うこと神の如くになったのである。今でも肥前の五島港口(戎子浦)に、石造りの古い波止場が残っているが、これは山本市兵衛が一人の力で築き上げたものと伝えられている。
 以上母の口からきいた大叔父市兵衛の怪力物語は、桃太郎の鬼退治よりも、花咲爺の出世話よりも、力強く喜右衛門の心を動かした。

市兵衛墓
山本市兵衛の墓
音右衛門墓
村井音右衛門の墓

 市兵衛は60歳を一期とし、宝暦6年(1756)5月26日に病死したが、その墓の側に重量17、8貫目ばかりの円石が置いてある。言い伝えによれば、それは市兵衛が老後に、朝夕に手球にもてあそんだ石であると伝えられている。
 母はその石を指して喜右衛門に向かい、そなたも早く成人してこの石を上げるようにならねばならぬと語った。その時喜右衛門は答えて、お母さん、叔父さんは力で名を揚げなさったろうが、私は智恵を磨いて、お父さんやお母さんを光らせたいと思いますと。
 この一言は、お父さんやお母さんを光らせる前に、まず喜右衛門自身の智力の光を見せたのである。果たせるかな後年に至って、誰も引き上げることの出来ない長さ23間幅6間の沈没船を、喜右衛門は独力を以て見事に引き上げた。母が希望した17、8貫目の円石のかわりに。


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