(8)幕府の褒美、藩主の賞典 エリザ号引き上げの総費用は、何程を要したものであるか。伝来の諸記録は、この事について全く触れていないが、ただ「蛮喜和合楽村井鍛煉抄下」に、浮方諸式の品目を列記した末に、「諸雑費凡そ500両計り」との一行がある。この500両は引き上げ準備の材料買い入れ代のみであるか、又は船の借り賃や人夫の給料・食料などをも含んでいるか、これらのことは今日から想像し得る限りではないが、兎に角喜右衛門の手もとから支出した現金も、決して小額でないことは勿論である。これに加えるに金で買われぬ喜右衛門の智力と義気とをもってすれば、8000石のエリザ号一艘を進呈しても、重きに過ぎる報酬ではなかったかも知れぬ。 しかし当時喜右衛門がびた一文でも報酬をもらったということは、諸記録に記載されていない。ただ幕府の方からは長崎奉行と老中とより褒美を受け、藩主の方からは待遇の特典を被り、オランダ人からは土産物を寄贈されたのである。村井家に保存する辞令書および内外の書籍に載せられたものを参考にして、下にこれを列記しておく。 一、長崎奉行からの褒美 当時の長崎奉行は朝比奈河内守昌始(まさもと)という人であったが、引き上げ完了後、喜右衛門を奉行所へ呼び出し、下の書面に銀30枚を添えて賞賜した。 長崎奉行から喜右衛門へ銀30枚褒美の書状 防州都濃郡 串ケ浜船頭 村井喜右衛門 其の方儀、沖紅毛船浮方の儀、紅毛人より相頼み候処、差しはまり出精い たし、殊に自分入用をもって早速浮船に相成り、修理にも取り掛かり候段、 誠に抜群の手柄、紅毛人は申すに及ばず、当所一統安心満足の事に候、これ に依り褒美として銀30枚これを取らせる 未2月 この文を見てもオランダ人と奉行所の喜びは、察するに余りあるのである。しかも文中明らかに「自分入用」の4字があって、実費すらも弁償を受けなかったことは明々瞭々である。 二、幕府からの感状 当時の幕府老中松平伊豆守は、長崎奉行からの上申に接し、下の感状を下付した。 長崎奉行から喜右衛門へ松平伊豆守の賞詞を伝える書状 防州都濃郡 串ケ浜船頭 村井喜右衛門 其の方儀、先達て紅毛沈船浮方取り計らいの始末、松平伊豆守殿御聞き 及ばせられ、抜群手柄の段、御賞美に候、仍って右御沙汰の趣申し聞かせ 置く 未4月 三、藩主からの賞典 長崎奉行所においては、幕府へ上申すると共に、喜右衛門が住所の領主である毛利家へも通知したのである。その頃の藩主は毛利齊房(なりふさ)であって、深く喜右衛門の功労を賞し、代官矢島作右衛門をして、喜右衛門に永代苗字・永代帯刀の特典をあたえることを、下の覚書をもって支配頭山崎新八に通知せしめたのである。
覚 都濃郡櫛ヶ浜浦 宍戸美濃殿知行所 百姓 喜右衛門 右去秋帰帆の阿蘭陀船、長崎沖浦上村木鉢郷にて沈船に相成り候に付、浮 方の儀、長崎奉行所に於いて種々仰せ付けられもこれあり候得共、浮方出 来かね候処、其の砌り喜右衛門事彼の地商売方に付参り合い候て、紅毛人 より相頼み、喜右衛門心遣いをもって浮方相成り、紅毛人は申すに及ばず 長崎表一統安心満足の由、これに依り御奉行朝比奈河内守殿御役所に呼び 召され、御褒美として銀30枚下され候由、河内守殿より彼者抜群手柄仕り 候段御知せ申し来り候、肝要の場所に於て比類無き手柄をせしめ神妙の至 りに候、これに依り格別の御沙汰をもって、永代苗字・永代帯刀差し免ぜ られ候條、此の段御申し渡しあるべく候、以上 寛政11年未3月 矢島 作右衛門 印 山崎 新八殿 四、領主からの指令 前にも記述したように、喜右衛門の住所櫛ケ浜は、毛利家一門の筆頭たる宍戸美濃の知行所に属していたから、宍戸美濃から下の指令を喜右衛門に渡した。 村井喜右衛門 其の方儀、今般長崎に於て、紅毛船浮方の儀に付、比類無き手柄せしめ候 趣、聞こしめし上げられ候、依って褒美として御上下これを下さる、なお 身通りの儀は御領分百姓惣触筆頭に仰せ付られ候事 寛政11未3月 喜右衛門が以上の待遇を受けるに至ったことは、当時の事情から見て、大変な名誉である。 |