蛮喜鍛煉書2
長崎沖オランダ船破沈のこと
入船 |
寛政10午の年長崎沖木鉢浦にオランダ船破沈せし。オランダ船は往古より4月より6月末入船して9月20日には長崎内海を出船して、神崎沖に懸り、荷役して10月20日にはいよいよ出船と定法なり。かかる所に、右オランダ船9月20日に神崎沖まで船を出し、荷物も荒方積み揃へ出船日を相待つところに、10月17日夜半方より西風強く、夜中には大風と成る。碇ひけて唐人瀬と言ふへ流れより、船底を損じ水込みと成る。浦々より漕ぎ船出て木鉢ヶ浦の沖へ漕ぎすへける。
出帆 |
沈み船は汐干には2、3尺出るとなり。船は表向きの定めは7000石、内緒もの旁3000石余已上一万石積みとなり。積み荷は色々ある中に銅おもなり。乗り組み95人。その通り早速見送り方の役船より立山御屋舗へ届け出す。その時御奉行朝比奈河内守様御評定の上、長崎地中は申すに及ばず浦々までへ御高札御立てこれあり。この沈み船浮かし方致したきものは申し出づべしと御ことなり。
座礁 |
その節、村井喜右衛門嶋々浦々へ鰯網仕入れ方に参り居り合い、その沈み船一見の上、一番にこの船浮かし方仕り候段申し出で候ところへ御奉行朝比奈河内守様仰せ出られ候は、防州より一人浮かし方の願い出参るが、長崎地下に一人なからんかと後日御高札御立て替へ相成され、喜右衛門へは先見合ふべしとの御ことにて御吟味ありしに、長崎より2人智恵者田中庄助・山下兵衛と言ふ才智工夫専一の人柄罷り出、千弁万加に工夫すれども浮かし方相成らず、オランダ人見兼ねて自身共地力工夫にて浮かし方仕りたきよし願い出候はば、則ち御免あり。
引き寄せ |
御奉行河内守様仰せられ候は、オランダ人は才智工夫においては中華人とても及ぶことあたわず、浮かし方相違あるまじくに付き、喜右衛門へは勝手次第帰国すべしとて御暇相成り候へども、何かに付き延引する中に、12月27日喜右衛門へ御用筋これあり旨とてオランダ人2人・御役人衆中上下都合30人程喜右衛門固屋へ御越し成られ候て、沈み船浮かし方の儀を御目附鈴木七十郎様遊ばされ御頼み候段申し聞かせられ、なほ受け状差し上げ候えば、御上直々の御免相成り候と仰せに付き、半方相合い御受け状差し出す。文言次の通り。
口上覚
この節、オランダ船浮かし方、私存じ寄り申し立て置き候通り、各々様より諸雑費入用等の儀、御尋ね成られ候ところ、承知仕り候。しかしながら、決して雑費に相拘わらず、万一存じ寄りの通り浮かし方相成り候節、御上様より御褒美として、御立ち下げ仰せ付けられたきは、オランダ人来秋渡来の上、相応の祝儀等を致し候は格別、私より右入用銀高等申し立て候所存毛頭御座無く候。もし又、私手内にて浮かし方相成らざる節は、右謝物たりとも、決して請け申し間敷候。
右御尋ねに付き、かくのごとく御座候。已上
午十二月 村井喜右衛門
加福安治郎殿 茂伝之進殿
石橋助左衛門殿 三嶋良吉殿
今村才右衛門殿 塩谷次郎殿
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