陶の道を歩く

2012.5.3



二〇一二年五月三日周南市福川から富田にかけての、室町時代末期に栄えた大内氏の
重臣陶氏の道を歩いた。

陶晴賢公賛歌
西国無双の侍大将
智も勇も
人を越えたり
陰徳太平記

朝九時半福川駅前に集合。沢山の人が集まっている。

さあ出発します。歩道橋を渡ります。

福川駅を振り返ります。

福川本陣跡です。
福川の本陣・脇本陣は、ともに御茶屋と称して代々福田家がこれを預かり、
西町にある本陣は、表口十七間、奥行十四間で門構えのある大規模な屋敷でした。

福川本陣跡2
享保六年(1721)に幕府の参勤交代における随行員制限令が発せられた頃から、
山陽道においても、それまでの海路から陸路による通行が激増し、福川本陣は、
幕府の要人や西国大名などの宿泊や休憩の場所を提供する重要な宿駅としての
役割を担いました。

福川本陣跡3
現在の本陣門は、天保九年(1838)に建て替えられたものを、昭和四十八年に
改修したものです。

福川本陣跡4

若山城跡に登ります。
陶氏は一三五〇年〜一五五七年までこの地を治め若山城築城は一四七〇年(1396年説あり)。
九代目城主・陶晴賢が一五五五年十月一日、毛利元就との厳島合戦に敗れ事実上滅亡する。
若山城での主な戦い
一五五一年八月陶晴賢が主君・大内義隆、打倒に蜂起
一五五五年十月杉重輔兄弟らが襲撃
一五五七年二月毛利元就の防長侵攻

震災支援の募金をしています。

義をみてせざるは勇なきなり
陶晴賢公生誕四九〇年碑(一五二一〜一五五五)
若山城主・陶晴賢公(二十歳)は一五四〇年十二月三日、大内氏の傘下にあった
安芸国・毛利元就(四十四歳)が出雲国・尼子軍に包囲され郡山城は落城寸前。
晴賢公は「義をみてせざるは勇なきなり」と、一万の援軍で尼子軍を撤退させる。

若山城三の丸跡から、左、仙島、中、黒髪島、右奥、大津島。

若山城跡顕彰碑
福川に若山あり
陶晴賢の拠りし所と云う
山址連続す
けだし大兵を擁するに非ずんば
以て守り為し難し
一八五一年三月七日
吉田松陰東遊日記

山口県指定史跡  若山城跡見取図

若山城西の丸跡

若山城本丸跡
「海軍省」と記した石碑。戦前海軍が見張り台に使っていた。

若山城本丸跡
山口県指定史跡
若山城跡
昭和六二年三月二七日指定
若山城は、大内氏の重臣陶氏の本城で、文明二年(1470)頃、陶弘護が石州津和野の
吉見氏の進攻に備えて築城したものと考えられています。(1396年陶弘政が下松の鷲頭氏を
撃つため築城したという説あり)

若山城から陶氏居館へ通ず、通称武者道へ入ります。
若山城は、連郭式城郭とよばれる中世山城の典型的特徴を示し、中心をなす本丸のほか、
東西にのびる尾根上を利用した郭や空堀・竪堀・壇床などの遺構がよく残されています。

武者道2
特に、本丸の北側斜面から東にかけて残る大規模な畝状空堀群(竪堀)は、
中世城郭の遺構をよくとどめており、全国的にも極めて貴重なものです。

武者道3

神上(こうのうえ)神社
御祭神
主祭神 神武天皇 日本国第一代の天皇
配祀神 天照大御神 日神、高天原統治の祖神
    月読命(つくよみのみこと) 月神、夜の国を治める神
御由緒
神上神社は神武天皇の聖跡
神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれむこのみこと)(神武天皇)は、遠大な建国の
御計画のもとに、舟師(ふないくさ)をひきいて、日向の高千穂を進発され、長い年月と
幾多の辛酸を経て大和を御平定、橿原宮において我が国初代の天皇として御即位になった。
この神上(こうのうえ)の地は、天皇が日向御進発の当初、海上の遭難によって
お立寄りになり、半年の間をお過ごしになった行宮(あんぐう)であり、御東行の途次、
暫し安らかに憩われ、深くみこころに留め給うた聖跡である。
天皇は、日向より筑紫国を経て海路内海を御東行中、周防灘に至り思わぬ風波に御遭遇、
北の方へ吹寄せられたので、ほど近い小島(竹島)にお舟を留められた。
この時天皇は御船酔甚だしく、島の対岸に漕ぎ入れてお休みになった。里人は種々の薬草を
献じ御快癒をお祈りした。これを含まれると忽ち御快くならせられ、「我心たいらかなり」
と仰せられ、里の名を「たいらの里」(平野)と命名された。さらに、浪音のきこえぬ地で
お休みのため、水際伝いに進まれると里があり、此の処の石に御腰をお掛けになるうちに
夜が明けた。この地は海上より微かな光を見た吉兆の地であり、微明(みあけ)(見明)
という。ここより山の麓をおのぼりになると、谷水の音が幽かにきこえる静かなところ、
彼方に黒髪島仙島などが夢のように浮かぶ瀬戸の海を眼下にした絶勝の小高い丘に
お着きになった。ここに假宮(かりみや)の御造成を仰せ出された。天皇は、近い高嶺に
登って四方の地勢をご覧になり御東行の道を御案じになった。この時、四頭の熊が地に
伏し額いた(ぬかづいた)のでこの山を「四ッ熊の峯」(四熊嶽)と名付けられた。
およそ半年、此の假宮で態勢を整えられた天皇は、「御舟は海の上を経よ、我は陸地を
行かん」と仰せられて再び御進発、安芸国・吉備国を経て遂に大和へお入りになり
建国の鵬図(ほうと)は成った。
天皇は、この神上の地に深く御心をお留めになり、御進発にあたって「朕何国二行クトモ
魂ハ此ノ假宮ヲ去ラザレバ長ク朕ヲ此処二祀ラバ国ノ守神トナラン」と宣らせ(のらせ)
給うた。里人等はその御旨を畏み、假宮の地に祠宇(しう)を建立し、「神上宮」と
称して斎祀奉った。

徳山百樹
サクラ(フゲンゾウ)(ばら科)幹の太さ(根廻)1.4メートル
サクラの名の由来には、いろいろな説がありますが、古事記に出てくる
「木花開耶姫」からサクラに変化したとする説が一般的です。
落葉高木で、ばら科に属し、昔から日本人に愛され多くの品種が作り
出されました。このフゲンゾウはオオシマザクラが母樹の園芸品種で、
普賢菩薩の乗る像という名称の八重咲きで薄紅色の桜です。

もう、田植の準備が始まっている。

陶氏系図
                     武護
弘賢ー弘政ー弘長ー盛長ー盛政ー弘正    興明
               弘房ー弘護ー興房ー興昌
                  弘詮    隆房(晴賢)−長房ー鶴寿丸
                               貞明

陶氏居館跡碑の文
陶氏は大内氏の流れをくむ右田氏の祖、摂津守盛長五世の孫、弘賢が吉敷郡陶村の領主と
なり、よって陶を氏とした。
二代弘政は世の中が南朝、北朝に分裂して混乱状態の中、大内弘世の南朝方に従い、
下松の鷲頭氏(大内家庶流)の北朝方と争戦。
居館を大字下上字武井の岡の原に築く。これを平城(ひらじょう)という。
もと富岡小学校の敷地であった。平城の南に続いて一段低い所を「にいどん」と云い、
即ち新殿の意で陶氏が新館を建てた所と伝えている。
古社上野八幡宮は正平十年(南朝一三五五)陶弘政の建立したものと伝えている。上野の
城山は、また陶氏の一支城であり、建咲院の裏山にも七尾山城を築く。四熊岳(504m)の麓
を通り花河原の西に陶氏の本城若山城(217m)がある。大手門に当たる東南方は福川に
属し、搦手の北面と西南は夜市の地である。

陶氏の居館跡
この周辺は現在平城(ひらじょう)と呼ばれています。これは室町時代、陶氏の居館が
ここにあったことに由来するものです。陶氏は大内氏代々の重臣で、南北朝時代、下松の
鷲頭氏を撃つために吉敷郡陶(現、山口市陶)からこの地に移り住み、やがてここに
居館を構えたとされています。南方の国道二号線付近に七尾山城、北に上野の城山
(じょうやま)、別所城などがありました。一方陶氏は海においても、優れた兵力を
抱えており、その本拠地が現在の富海(とのみ)、或いは、周南市の古市(ふるいち)に
あったとされています。また、近くの海印寺(かいいんじ)には、陶弘護の次男の興明や
興房の嫡男で晴賢の兄にあたる興昌の供養塔があり、大切にされています。

陶晴賢 辞世の句
何を惜しみ 何を恨まん元よりも この有様の定まれる身に

勝栄寺 教訓状発祥の地碑由来
毛利元就は、弘治元年(1555)十月、厳島合戦において陶の大軍を壊滅させ陶晴賢を
自刃せしめました。その後、防長二国(長門、周防)の各地で大内氏の残党の蜂起が
相次いでいるとの報に、事態を重視した元就は、弘治三年(1557)十一月、長男隆元を
伴って再びこの地、富田に進駐し、ここ勝栄寺を本陣として一揆を鎮定した。

元就は、老躯を顧みずして毛利家の為に精励するの範を自ら示すと同時に、在陣中に
自ら筆をとり、長男「隆元」、二男「元春」、三男「隆景」にあて、各自毛利家の為に
一致協力して努力すべきことを懇々と諭した十四ケ条にわたる教訓状を認めた
と言われている。

現在、この教訓状は国の重要文化財に指定されており、
毛利博物館(防府市)に所蔵されている。


弘治三年(1557)十一月二五日毛利元就が、周防国富田(現山口県周南市)の陣中で、
長男毛利隆元・次男吉川元春・三男小早川隆景に与えた書状である。
三兄弟が一致協力し、「毛利」の家名を大切にし、長くその存続を図るよう諭した
十四ケ条にわたる長文の手紙である。
この手紙は、大内氏を打倒したのちもなお、その旧領国周防国で頻発する
反毛利氏の一揆を鎮圧するため、再度周防国へ出兵した陣中で書かれたものである。
当時の毛利氏は、大内氏を打倒したものの、大内氏の遺領をめぐって九州の大友氏や
山陰の尼子氏と対立が続いていた。また、ともに大内氏を打倒した安芸国や備後国の
国衆(くにしゅう)らは毛利氏の台頭を快くは思っていなかったし、毛利氏内部にも、
急速に拡大させた領国を統治することのできる人材はなく、却って自己の所領を拡大
させた譜代家臣のうちには、元就の権力が強くなることを恐れ、当主である毛利氏の
意向に従わなくなるものが現れる始末であった。
この書状は、こうした毛利氏の危機的な状況を三人の子どもにはっきりと認識させ、
改めて兄弟が結束して毛利家の維持に努めていくことの必要性を説き、元就の政治構想を
息子たちに伝えた意見書であり、単なる教訓状を越えるものであった。
後世毛利氏に危機が訪れるたびに、毛利輝元(元就の孫)はこの書状を持ち出し、
一族結束の必要性を説いた。こうした努力の結果、毛利氏は江戸時代二六〇年の間存続
できたのである。

勝栄寺土塁及び旧境内  山口県指定史跡、昭和六二年三月二七日指定、周南市大字富田
勝栄寺は南北朝時代、一三五〇年代ないし一三七〇年代に瀬戸内海の屈指の港町富田市の
東端に建立された時宗の寺院である。山口善福寺(現在の道場門前)の末寺で、開山は
其阿(ごあ)上人、開基は大内弘世の重臣陶弘政である。

勝栄寺土塁及び旧境内
勝栄寺の旧境内は、寺院でありながら同時に土塁と環濠をめぐらせる
城館的な施設であったと考えられる。環濠はすでに埋められているが、
土塁の一部が今なお残存し、県下唯一の例として貴重である。

おわり

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