真田幸村の息子真田幸晴伝説の解明
真田幸晴夫婦の墓 周南市久米の原江寺に、慶長二十(1615)年大坂夏の陣で戦死した真田信繁(真田幸村と呼ばれることが多い)の息子、真田幸晴夫婦の墓と、後裔河村幸雄氏が建立した石碑がある。 碑文表は「幸村幸晴君夫婦之墳」
碑文裏は「幸晴君俗称理右衛門尉真田幸村君之末男也寛文六(1666)年十月廿六日病歿干栗屋村 妻君者同村茂八之女延宝九(1681)年正月十日歿焉 今茲 明治三十二年十一月九世之孫従六位勲六等河村幸雄建立」 と刻まれている。
豊臣と徳川の決戦、慶長十九(1614)年大坂冬の陣、同二十年夏の陣で家康に百メートルまで肉薄するも真田信繁(源二郎左衛門佐幸村好白)は戦死してしまい五月七日豊臣は滅亡する。予め信繁に言い含められていた、乳母、股肱の臣大熊久助他は真田信繁の末の男子真田(左太郎)幸晴を連れ、四月二十四日大坂を出航し、九州小倉の細川氏家臣を頼り逃れようとしたとき、徳山沖で暴風浪に見舞われ馬島(大津島)に漂着。船頭と大熊久助は馬島へ飛び移る際溺死してしまう。乳母は幸晴を抱え馬島へ上陸を果たす。其処へ賊が現れ金品を要求するが乳母は懐剣で賊を刺し危機を脱する。幸晴当時三歳で知り合いを頼り富田の平野浦で三年養育される。準備が整い小倉細川氏家臣を訪ね三年世話になるが居りずらくなり、櫛ケ浜にある山伏寺の防長二州袈裟頭快照院の世話で、栗屋にある山伏寺教学院(吉祥院の前身)にたどり着き、身を潜めた。徳山毛利藩主から幸晴を召し抱える誘いがあったが、真田信繁源二郎左衛門佐幸村好白が仕官してはならないと厳命していたためお断りする。
そもそも真田家は父真田昌幸のころ信州修験道の聖地 四阿山(あずまやさん)(頂上に、真田昌幸の建立に始まるという神祠を祭る)の山伏と親しかったので、教学院は心強かった。(注)四阿山(あずまやさん)上田市真田町、須坂市と群馬県嬬恋村の境をなしている。 「あずまやさん」が東屋の形に見えるのは南山ろく両県境の鳥居峠付近からで、逆の北側浦倉山方面からだと三角にとがった鋭鋒である。山名由来は上記のほか、古事記からの伝承によると、日本武尊が東征の帰り鳥居峠(南の碓氷峠との説もあるが)に立ち寄り、暴風の浦賀の海でそれを鎮めようと、身代わりとなって海へ身を投じた弟橘姫(おとたちばなひめ)をしのび、東方を望んで「あずまはや」と三嘆し、北に気高く聳える峰をそう名付けたともいわれる。
供の者にに刀鍛冶がおり栗屋の教学院(現在の吉祥院の場所)下で鍛冶屋を営んだ。 ただし追手を避け、真田を名乗らず吉村幸晴と称した。成長の後に栗屋の河村茂八の娘を娶り河村幸晴と称する。ちょうど毛利氏の農地開発食糧増産奨励のときであり、農具の生産修理は繁盛を極めた。依って河村(真田)幸晴居宅辺や鍛冶屋辺は小字鍛冶屋河内と呼ばれるようになり近くの川は鍛冶屋川と呼ばれるようになった。架かる橋は鍛治屋橋と呼ばれた。
昭和の終わりになり、歴史より河川管理を優先させる県行政官により鍛冶屋川は西光寺川(上流が西光寺川のため)と名称変更される。平成の世になり、これでは栗屋の歴史が埋もれてしまうと危機感を持った、温品新四郎義清の一族、郷土史家の温品鎮夫さん等は二年半かけて県行政官を説得口説き落とし、新しい橋(鍛治屋橋)の銘板に鍛冶屋川と記す妥協を獲得した。(鍛治屋橋は新設の橋で、本来の鍛治屋橋は「浴通り橋」と改名されてしまっている)
また、河村(真田)幸晴の子孫の一人は現在のJR櫛ヶ浜駅近くにあった、山伏修験道快照院長沼家で働くようになる。そこで、本家河村(吉村)某は安全のため、真田信繁(真田幸村)ゆかりの六文銭紋の付いた兜甲冑と采配を、分家快照院河村家に預けた。
時を経て明治になり熊毛郡八代の岡本家から徳次さんが山伏の顔役快照院河村家に養子に入った。徳次17歳のときに上京し当時山口県出身の医政家である山根正次のもとに身を寄せ勉学に励み、明治23年に医師免許を得た。そのころの医術開業試験は前期3年後期7年といわれ合格率が10〜20%の難関だったという。 明治23年に末武南村笠戸島にコレラが流行したのを機に請われてその地で開業。橋本と改姓。ペスト流行のため検疫医となる。 山口縣水産組合検査員など兼任。明治41年(1908年)に櫛ヶ浜に帰る。橋本医院開業。久米村村会議員もひきうけた。
<参考> 昭和六十年十一月三日、橋本医院三代目、橋本和人先生の代に真田信繁(幸村)家由来の鎧兜が櫛浜文化祭で展示される。
日刊新周南昭和六十年十一月一日号 ”真田家のよろい”発見 櫛浜文化祭で展示 橋本さん方に家宝で伝来 徳山市櫛ヶ浜の橋本和人さん(五八)宅で、真田家の家紋の六文銭がついたよろいとかぶとが見つかり、三日、櫛浜小講堂で開かれる地区文化祭で展示される。 JR櫛ヶ浜駅北側にある原江寺(有馬実成住職)には、大坂の陣で活躍した真田信繁(幸村)の末子、幸晴と妻栗屋村茂八の女の墓があり、真田信繁(幸村)のよろいかぶとではないかという説もあって、文化祭でも注目を集めそう。 このよろい、かぶとは采配といっしょによろいびつに入っていたもので、橋本さんは「いつから伝わっているのかわからないが、代々家宝にしていたもの」と話している。両方とも黒一色で、かぶとの正面には龍の飾りがつき、ひさしには刀傷がある。櫛浜郷土史研究会事務局長の浅田実さん(六九)は「あかで汚れ戦場でかなり上級の武士が実際に着用していたものらしい」と話している。 櫛浜地区は、大坂の陣で敗れた真田信繁(幸村)の子幸晴が船で落ちのびる途中暴風雨にあい、避難のために上陸、そのまま住みついて鍛冶屋を開いて病没した地。その子孫も多いと言われている。 よろい、かぶとが展示されるのは、櫛浜郷土史研究会(宇野二郎会長、十五人)が企画した郷土史コーナー。このほかにも、地区内の旭町で、十四人が亡くなった昭和二十年七月二十二日の空襲の状況を紹介する。また、市役所櫛浜支所で見つかった明治二十年ごろの地区の地図二枚も展示される。一枚は畳一枚分もあるもので、昔の街並みと字が記されている。
日刊新周南昭和六十年十一月六日号 徳山 幸晴のよろい・かぶとも 櫛浜文化祭にぎわう 徳山市櫛浜地区のコミュニティ文化祭が三日、コミュニティセンターなどを会場に開かれ、三千人が秋の一日を楽しんだ。 櫛浜地区は、漁師町として栄えていたころから縁台将棋が盛んで、将棋クラブ(村井洋一代表)はテントに将棋盤を並べて子供たちに手ほどき。センターの図書の貸出しをしている図書部(温品富江代表)は、手づくり紙芝居を上演、子供たちの人気を集めた。 また、櫛浜郷土史研究会(宇野二男会長)は、橋本和人さん(五八)宅に伝わる真田信繁(幸村)由来のよろい、かぶとを展示、NHK大河ドラマ「真田太平記」放映中とあって関心を集めていた。 地域広報紙「コミュニティくしがはま」昭和六十年十一月二十五日号 「六文銭」印のよろい・かぶとについて 櫛浜郷土史研究会 今年の文化祭に展示した「六文銭」印の鎧兜は、櫛ヶ浜駅前の橋本医院の家宝として伝わっているものです。「六文銭」印とは、NHK大河ドラマでお馴染みの真田家の家紋です。 どうして、この地に真田家の鎧兜があるのか今のところ解明できないが、参考となる次の様な史実がある。 大坂夏の陣、慶長二十(1615)年に敗れた豊臣陣営の勇将真田信繁(幸村)の末男、幸晴が西下の途中櫛ヶ浜の沖で舟が暴風雨に遇い、避難のため栗屋に上陸し河村と名乗り鍛冶屋を営んだ。現在栗屋に鍛冶屋川があり、原江寺境内に幸晴夫婦の墓がある。又、後裔の河村幸雄氏建立の石碑がある。 この様な関係でこの地に真田家の鎧兜があると云う事実は興味深いものである。 歴史には謎がつきものである。ロマンの世界を訪ねてみませんか。
2016(平成28)年1月19日日刊新周南 真田幸村の子 幸晴が栗屋に 墓石、六文銭の石仏 大河ドラマで話題に? 戦国時代の武将、真田幸村(信繁)を主人公にしたNHKの大河ドラマ「真田丸」の放送が始まったが、周南市久米の櫛ケ浜駅 近くにある曹洞宗原江寺(有馬嗣朗住職)の墓地には幸村の子、幸晴夫妻の墓と、墓の場所を示す石碑があり、 関心を集めそうだ。 幸晴は幸村の庶子とされているが、有馬住職によると真田家の系図にはなく、その存在自体が口承によるもの。 石碑は幸晴の後裔とされる河村幸雄さんが建てたもので、太華山を正面に見ることができる同寺の墓地の高台にあり、 そのそばの墓石が夫妻の墓という。 石碑には幸晴は「俗称理左衛門、真田幸村君末男也」とあって、ちょうど350年前の寛文6年(1666)に病没、妻は栗屋村の 茂八の娘で、延宝9年(1681)に亡くなったと記されている。近くには台座に真田家の旗印に使われた六文銭の家紋が刻まれた 石仏もある。 櫛浜地区コミュニティ推進協議会が1987年にまとめた郷土誌「ふるさと櫛浜」によると、慶長20年(1615)の大阪城が落ちた “夏の陣”で幸村も討たれ、幸晴は西へ向かったが、乗っていた船が暴風雨にあって櫛浜に上陸、そのまま栗屋に住み、鍛冶職 を営んだことから鍛冶屋河内の地名が生まれ、近くを流れる川は鍛冶屋川と呼ばれるにようになったという。 昨年、久米地区コミュニティ推進協議会がまとめた「久米史跡まっぷ」も「大阪城が陥落したので、再挙するため九州に 下る途中、暴風雨にあいました。そのため舟を櫛ケ浜によせ、そのまま栗屋に居住して鍛冶職になりました」と紹介している。 やはり幸村らを描いた1985年のNHK大河ドラマ「真田太平記」が放送された年には櫛ケ浜で六文銭がついたよろい、かぶとが 見つかり、地区の文化祭の櫛浜郷土史研究会のコーナーに展示されて話題になった。 このよろい、かぶとは現在、所在不明だが、かぶとの正面には竜の飾りがつき、ひさしには刀傷もあって、かなり上級の武士 が実際に着用していたものらしかったという。 同寺は夏の陣があったころにはすでに建立されており、その後の火災で文書は残っていないが、 350年前のことが今も語り継がれていることに有馬住職も「ロマンを感じる」と話している。
2016(平成28)年4月28日・日刊新周南 徳山駅 真田幸村の子 幸晴紹介 南北自由通路に、パネルとのぼり NHK大河ドラマ「真田丸」で話題の戦国時代の武将、真田幸村の子と伝えられる幸晴の墓が 周南市の櫛ケ浜駅近くの原江寺にあることを「日刊新周南」の記事を使って紹介したパネル がJR徳山駅の南北自由通路に展示されている。 伝承では、幸晴は幸村の庶子。大坂城が落城、幸村も討たれた夏の陣のあと、幸晴は西に 向かったが、暴風雨のため櫛ケ浜に上陸、栗屋に住んだ。原江寺に墓があり、真田家の家紋、 六文銭を刻んだ石仏も残っている。 記事はこの伝承と墓などを紹介したもので一月十九日付の日刊新周南に掲載された。パネルは この記事に原江寺の地図も入れ、そばに六文銭ののぼり二本も立てている。
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