岸田劉生記念碑

2012.8.3周南市文化会館

岸田劉生記念碑

岸田劉生は、昭和四年十一月、満州旅行の帰途、同行の画商田島一郎に伴われ、
田島の郷里徳山に立ち寄り三週間滞在したが、十二月二十日、病気のため当地で亡くなった。
行年三十八歳。
徳山では「徳山風景」、静物など油絵三点、日本画二十点余りを描き遺した。
昭和四十六年、徳山市市民館前庭に記念碑を建設したが、平成十六年、周南文化協会の発足を
機会に周南地方の文化の象徴としてこの地(文化会館前庭)に移設したものである。


武熊奇談  ーある劉生随行日記からー

長田昇(長田眼科院長)    昭和四十六年十一月、郷土随筆17

岸田劉生という画家の名前は、早くから知っていたし、彼が昭和のはじめに徳山で亡くなったという事も、もう十数年前から聞いていた。当時、まだ元気だった栄亭のおやじが、彼の遊興ぶりを面白く話していたからである。だが私には、彼にとって徳山が正念場であったのならばともかく、ただ満州からの帰り道、くたびれて立ち寄り、酒を飲みすぎて死んだだけの事ではないかといった気持ちが強く、従って何の感慨もなかった。
彼は恐らく内心では徳山の人達を軽く見ていたのではなかろうか。彼の絵から受ける倣岸不遜の赴きが、私にそう思わせないではおかなかった。その様な思いが私に益々劉生という名前を見るのもうとましくさせたのである。そんな風であったから、新聞で劉生の碑が作られると知っても、素人俳人の句碑が出来る時代だから、そんな事もあろうという感じしかなかった。
新聞を読んで数日経ってからである。友人の山下君がひょっこり遊びに来た。例に依って暫く他人の悪口を言って喜んでいたのが、ふと思い出した様に、亡くなったじいさんが良く言っていたんだがと言ってこんな話をした。
劉生が徳山に来て、身体の具合が悪くなった時、じいさんに診察を求めに来た。診察中の劉生の態度が生意気だったので、少しかんにさわったじいさんは、紙を出して「お前さん絵描きだそうだが、一つ蜜柑でも描いてみろ」と言った。ところが劉生は素直にすらすらと描いてみせた。じいさんはその絵の、見事な出来栄えに思わずうんとうなってしまった。
「さすがに美味いもんじゃった」じいさんはいつも最後にこう云っていたそうである。「じいさんはこんな事でウソを云う様な人ではなかった。ウソならそう度々くり返して僕に話したりはしなかっただろう」

岸田劉生
終焉の街
八十六歳 実篤書(武者小路実篤)
孫の武右君の話は私に些かの興味を覚えさせた。と云うのは、じいさんの武熊と云う人は医者としてだけではなく徳山では特異な存在だったらしいからである。私は彼に会った事はないが、私の外来に来る患者で、四十年前に武熊先生に目イボを切って貰ったあとですとか、診察を受けに行ってドナラれたとか云う話をなつかしそうにする人が可成りある。 兎角思った事はそのままズバズバ云うが、自己顕示欲が少ないので相手も安心して聞けたらしい。何事につけ珍しく欲のない人だったらしい。同時代人は彦左衛門とか岐陽将軍とかいうあだ名を奉っていた様だが、彼にはそんなオポチュニストなんか恐らく眼中になかったに違いない。
彼はコットウを愛していたが、彼にはコットウの真贋を見抜くよりも、自分で自分自身の心の真贋を見抜いて、自縄自縛、自己嫌悪におちいった一時期があったのではなかろうか。
彼にまつわる数多くの逸話を聞いていて、私はそう思われてならなかった。
私には、武右君の云う様に武熊老程の人物がこんな事で作り話をするとも思えないが、さりとて、あの自信過剰の劉生が素直に描いてみせたとも一概には信じられない気持だったがそんな事より、たとえ作り話にせよ、武熊老が何故こんな話をくり返し孫に語って聞かせたのだろうかという事が、私の注意をひいたのであった。この点を武右君にたずねると、彼はいとも簡単に「そりゃあ本当にあったからだよ。じいさんも印象が深かったのだろう」今更いわでもの事といった口調であった。私は成程と思った。だが、あとで独りになってみると、どうも彼の返事は歯切れの良い割には、私の気持ちをすっきりさせてはくれなかった様である。武熊老の心に深くきざまれたものは何か。私は初めて強い興味を覚えた。

一世の偉友
劉生兄
龍三郎書(梅原龍三郎)
翌朝、私は、以前劉生の記事をのせていた新聞社にV氏を訪ねた。V氏は「さあ、そんな事は知りませんね」と首をかしげて、気の良さそうな笑顔を見せた。いささか気落ちしていると、「あの記事を書いたのはM氏だから」と云ってM氏を紹介してくれた。元気な折の劉生に三度ばかり会った事があると云うM氏は、自分が徳山に来たのは彼が亡くなった後だからたしかな事は判らないがとの前置きではあったが、あの自意識の強い劉生が身体の具合が悪いからと云って、自分から医者の門をくぐる様な人ではない。ましてや、絵を描いてやるなぞという事は元気な時代の彼を知っている自分にはちょっと信じかねる。と云った話をされた。土方定一氏によれば彼は他人の批判に対して、抗議というようななまやさしいものではなく、現在から見れば狂気じみているとさえ思われる自己確信と自己誇示、無茶とさえ思われる敵愾心と征服欲とをもってこれに答えていたらしい。又梅原龍三郎の「彼の一生は英雄的であった。多くの敵と善く戦った。
実際人を見くびるだけの実力を持っていた云々」と云う言葉からしても、M氏の言葉はうなづけるものがあった。だがしかし、それならばそれ程自意識過剰の劉生が何故、大連からの帰りに、徳山に寄る気になったのだろうか。大連から家族への手紙に、「家の夢をよく見る。早くお金を儲けて家に帰りたい。そして家のフシンをするのが楽しみだ」(十一月九日宛)と書き、事実個展の終った翌日、すぐ帰京すると言い出した彼が、何故徳山に腰を落ちつけたのか。この様に考えて来ると、「家のじいさんがそんな事で嘘を言う筈がない」と言った武右君の言葉が再び思い出されてくるのであった。私はやはり、武熊老との出会いについてもう少し真実を確かめてみようと思った。


康成(川端康成)
その夜私は劉生の徳山に於ける会計方をしていたという藤井成斎氏に尋ねた。彼は、「こんな田舎では当時劉生と言っても知る人はなし、まあ滞在費位は出るだろうと思ったが、一点二十円の絵も、仲々売れず苦労した。勿論山下先生や梅原先生の所へもって行って見せたが買ってもらえなかった。結局最初に買ってくれたのは、小児科の下村先生だったと思う」劉生が武熊老を訪ねた点に関しては、一緒について行った様な気もするし、そうでない様な気もする。よく覚えていないとの事であった。武熊老には、子供の様にかわいがられていたという藤井成斎氏が覚えていないというのだから、やっぱりこの話はフィクションかも知れないと思った。翌日、夕方診察を終えて私は、劉生を診察したという藤井佐一医師を訪れた。藤井佐一氏は、少年の頃、武熊老に可愛がられ、武熊老のすすめで医者になったという話を聞いていたので、彼が劉生を診察したのは、或は武熊老の推せんによったのではないかと思ったからである。藤井佐一氏は目を軽くつぶって「さあ、劉生を診察したといっても確か一、二度でしかなく、誰に呼ばれたのかも、もう忘れてしまった。ただ劉生の全身に浮腫が強く皮膚の色調が非常に悪く心臓も随分よわっていて、苦しそうだったのは覚えている」との返事であった。が、さすがにそれだけでは返事にならないと思ったのか、「その事なら、前田麦二さんが覚えて居るかも知れない。あの人はいつも劉生と一緒だったから」といって麦二さんに電話をして呉れた。
私が田島一郎氏の岸田氏随行日記の事を知ったのはこの時であった。田島氏の日記は、玉野先生が持っておられたものを図書館長からその写しを見せていただく事ができた。図書館長には先年藩政府時代の医療を調べた時、随分お世話になった事があったので、実は今度の事でも真先に思い付いたのであるが、少し廻り道をした様であった。
田島氏は云う迄もなく劉生の満州旅行に同道した人であり、徳山に立寄る様さそい、死水をとった人である。日記は、劉生の亡くなった昭和四年十二月の翌々月、つまり昭和五年二月号の「アトリエ」に発表されたものである。日記の十二月八日付けで次の様に記してある。
「曇り、冷々とした天候。風景を仕上げる予定なりしも日ざしの弱い為中止され、午後山下家に古画を拝見に行く。二、三陶器に見るべきものあり」

昭和四年(1929)十二月徳山風景(東山町、背景奥は太崋山)


平成二十四年(2012)九月十二日東山町、劉生が「徳山風景」を描いた所

矢張り劉生は山下家を訪れているのである。あまりのあっけなさに私はむしろがっかりした位であった。だが、しかし、診察を受けに行ったのではなく、遊びに行ったものらしい。田島氏の父君は武熊老とは熟知の間柄で所謂碁仇と云う奴だったらしい。武熊老の三男達雄氏(現周南カントリ支配人)も「うちのおやじと田島さんが碁をはじめると面白くてね。待て、待たないで碁石の上にのせた掌をつねったりひっぱったりの大喧嘩をしたものです。或時は碁盤をひっくり返して、田島さんが飛ぶ様にして帰っていった事があります。」と云っている位である。だとすると、その息子の田島氏が、劉生をコットウ好きの武熊老の所へ連れて行こうと思うのも自然であろう。日記をみると、元市長長谷川藤七氏の名前が再三出て来る。殊に長谷川藤七氏の経営していた労務者の無料宿泊所の話に劉生はいたく感激して「善種善果」と賛した果物の日本画を描いてやっている。其上、風景としての油絵の絶筆となった「徳山風景」の場所が長谷川藤七氏宅の近くでもあるので、何か教えられる事はなかろうかと思い、人を介して長谷川藤七氏へ面会を申し込んだ。長谷川藤七氏は心良く応じてくれた。老人クラブ会長と云う氏は、竹ふみの効用について一席弁じ、氏の考案した健康理論についての批判を求めた。私は若々しい彼を羨しく思った。
「田島はね東京で金ぷらと云う天ぷら屋をやっていましてね。そこへ芸術家連が良く呑みに来ていたようです。劉生が山下の家へ寄ったのは事実です。私もついて行きましたから。絵も描きましたよ。武熊先生が立派なスズリを見せましてね。どちらが云い出したのかは忘れましたが、老が大声でスズリだけでは駄目だ。水をもって来い、水をもって来いとどなったのは良く覚えています。勿論診察に行ったのではありませんでした。丁度、風景を仕上げようと云っていたのを、あいにくの暗い天気だったので止めにしたのです。風景を描くためのキャンバスを立てる位置は、その前行った時、杭を打っておいたのです。劉生に云われて私が打ったのだから確かです」
明快な解答であった。矢張り診察を受けに行ったものではないらしい。

   善種善果と賛のある果物の日本画
しかし、この事も日記を良く読めば案外うなずけなくもない所もある。と云うのは、劉生が山下家を訪れた前々日、彼は頭痛気味でひる過ぎ迄休み、午后近所の坂本医師(婦人科)の往診を依頼している。既に健康をむしばまれていたと思われる劉生が、頭痛で医師の往診を依頼したあとだから、医者の武熊老と対していて、身体の話が出たのも当然であろうと思われる。いや、身体の事は案外、顔色の悪い劉生を見て武熊老の方から云い出したのではあるまいか。前述達雄氏は「あの時、私は徳山中学二年生でしたが、学校から帰ると丁度玄関の所でおやじに会いました。おやじが、劉生と云う絵描きが自分の身体を丈夫にしてくれたら先生の肖像画を描いてやると云ったが、あれではわしの薬を呑んでももう治らんじゃろうと云っていました」と当時の模様を話した。もっともこの話は、それから一週間ばかり経ってからの話なのかも知れない。劉生が倒れたのは、それから一週間程経ってからであるからである。この時、最初にかけつけたのは日記によると武熊老である。栄亭のおやじが武熊老の出入りだったからこの事も極めて当然と思える。この時、劉生は武熊老に無理を云ったらしい。武熊老はおこって、「もうお前のような奴は診てやらん」と云って帰ってしまった。すると劉生が、矢張りあの医者が良いからあれを呼んでくれと云ったそうである。(達雄氏談)
然し、これだけでは何故劉生が武熊老の印象に焼付いたかと云う事は判らない。
一体に劉生の遊興振りについては「東洋画の美の伝統を油絵具のうえに生かそうという大命題に対する焦慮と絶望とが彼を酒と女においやった」という意見もある様だが、武熊老の心に深く印象付けたのはその様なものではあるまい。呑み助のくせに自尊心ばかり強いと思っていたのが、意外に自信にあふれた描き振りをしたので素直におどろいたのではあるまいか。或いは、医師である武熊老には既に全身病状の可成り顕著に現れている劉生に悪い予感がし、しかも、身体をこわして迄酒色におぼれた男の美に対するするどい眼と自信とにおどろいたのかも知れない。この思いが劉生没後、彼の真価が世に出るに随って増々武熊老の心に強く印象付けられたのではなかろうか。私には素直に筆をとった劉生も、その絵をみて素直に感心した武熊老も全く自然の事の様に思えて来だした。
徳山における劉生の酒については、岩城氏に依れば大変なものであったらしい。「あんなに酒を呑む人を見た事がない」と云う事だったらしいが、徳山以外の地での呑み振りを良く知っている田島氏に依れば、徳山での酒量は可成りおとろえていたとの事である。田島日記にはいたる所に其旨が記してある。彼の酒について武者小路実篤は「彼は酒を呑む事でなしくずしに自殺したのだ。自分の画に自信がなくなったのがその原因のように云う人もあるようだが、僕はその反対で、彼は自分の画に自信を失った事はないと思う。彼は自分の生活の仕方にあいそをつかし、立なおろうとしながら、酒と女の誘惑にはうちかてなかったのは事実だと思う」と語っている。本当に其通りだろうと思う。或いは、極めてプリミチーフで私的な原因があったのかも知れない。
「昭和三年頃、劉生は日本橋の於峯で浜子という芸者を呼んで熱をあげ、一週間も家に帰らず流連していた事がある。この浜子という女も決して美人ではなく、劉生好みのややグロテスクな写楽ばりの容貌をした女であった。中略。既に数日か流連をつづけていたのであろう。当然ここも相当の借金をつくっていたらしく、劉生は無精髯を生やし憔悴した顔をしていた。金に詰まったお客をこの世界では好遇するわけはなく、劉生はあんどん部屋みたいな汚い室に入れられて、しょんぼりしていた。浜子をそうやって、じっと待っているのだが、彼女はなかなか姿を見せないらしい。女にうつつを抜かした蕩児の果てと云った感じであった。(矢野文雄「アート」)

切通しの写生(道路と土手と塀)
劉生は「写楽趣味のデロリとした顔を好む」(土方定一)でいたそうだが、この事は彼の麗子像一連の作品をみても充分にうかがえる。この様な劉生の遊びの手引或いは相手をしていた田島氏からすれば、徳山での劉生はそれこそ「のうのうとし、すっかりいい気になって羽根をのばした」(武者小路)のも事実であろう。田島日記にもその模様はうかがえる。だが私には、何故か同じ田島日記から一種の清々しい迄の弱さをも感ずるのである。この事は或いはこの日記があまりに整理されすぎている事から来るのかも知れないが、私にはそれだけではない様に思える。そしてこの弱さが、元気な時代とは可成り印象の異なる徳山における劉生を象徴しているのではなかろうかと思えるのである。では、この弱さとは一体何であろうか。何処から来ているのであろうか。
私はもう少し、徳山における劉生について調べてみようと思った。
徳山における劉生については、これ迄述べて来た田島氏の「岸田氏随行日記断片」の他に岩城次郎氏の「徳山市における岸田劉生」前田麦二氏の「岸田劉生先生在徳之記」その他二、三の小論があり、それぞれ詳細に論じてあるので、これだけ読めば大体判る。だが、少し気になるのは、これらの著者の証言に可成りの食い違いがある事である。しかし、これも各人の聞書き、覚書きであってみれば、各人各様の考えのある事も当然であろう。
武者小路実篤はその著書の中で「彼は日本に帰り、徳山の田島君の処に寄る事にした。彼がなぜすぐ鎌倉へ帰らなかったか。あまり自分の夢がこわされたので、何処かで骨休めしたかったのか、それとも金を持って帰るのを待ち受けている借金取りに逢うのを恐れたのか」と記している。

      黒き土の上に立てる女(1914年)
又岩城氏は「劉生自身にとって、灰色の満州から日本のこの温和な瀬戸内海沿いの街で、旅のつかれをいやしたかったのであろう」と簡単に記している。前記藤井佐一氏も「金も欲しかったらしいね。だが絵が売れなくて苦労した」と語っている。
大連での劉生が甚だ失意と不快だった事は誰も記している。この間の事は前述した劉生自身家族にあてた手紙にも充分に現れているし、其後の彼の行動でもうかがえる事である。あれ程帰心矢の如きだった劉生を徳山に立寄らせたものは何であったろうか。勿論田島氏の説得もあったであろうが、私は劉生の健康状態というものが大きく彼の気持ちを左右したのではなかろうかと思うのである。
彼は大連で度々発熱し、扁桃腺炎だと云われている。だが然し、大連に於て彼を診た永原医師は、かねてじっこんであった武者小路実篤への手紙に「岸田が随分健康を損ねているから、酒を呑まぬ様注意して欲しい」と云っている。この点に関しては劉生自身十一月九日の家族宛の手紙で、風邪をひいて少し神経衰弱気味みたいになり、頭がつかれたと云う報告をしている。この事は私には可成り興味のある事であった。と云うのが、徳山に来てからの劉生について、前田麦二氏は「徳山に着いた時から身体の調子が悪かったのか、描く時色の調子が良く解らないと目をこすりながら作画していた」と記している。
劉生の視力障害については田島日記にも再三出て来る。例えば十二月十一日、前田兄に電話さる。午后二人にて八号の静物にとりかからる。この日、眼がかすむ様で一時間の後仕事を中止さる。十二月十二日、前日に増して眼先が暗く仕事進まず断念。医師の来診を求むべく先応先生にお尋ねする。神経のせいなりと断られる。更に下って、劉生が発作を起こして倒れた後、永安眼科医の精密検査を受け「腎性網膜症」との診断をされている。視力障害が腎臓からのものだという事はその前日山下、奥田両医師も診断はしているが、この両氏は恐らく精密検査はしていないと思う。だがこの事は、つまりそれだけ全身所見が悪かったという事になるのではなかろうか。又劉生を診察したF医師は「全身浮腫が強く、皮膚の色調が非常に悪く、心臓も随分弱っていて苦しそうだった。胃潰瘍だとも思ったが、それの穿孔にしては痛みの具合がおかしいし、全身所見からして腎臓、ひょっとすると肝臓も相当犯されていたのではあるまいか。検査らしい検査は何一つしないままだったので確かな事は判らずじまいだった」と初めて診察した日の印象を語っている。

自画像
これらと、徳山での酒量のおとろえ、過労気味の事共を考え合わせると、眼科医の私には、彼が扁桃腺炎から腎炎を患い(扁桃腺炎から腎炎を起す例は多い)それが終には尿毒症となって彼の生命をうばったのではなかろうかと思えるのである。然かも腎炎は可成り高度のものであったのであろう。だから、大連の永原医師も酒を止めさせなければとりかえしのつかない事になるとの忠告の手紙を出したのであろう。腎炎が起れば、浮腫が来て心臓発作も起すし、又腎性網膜症を起して視力障害を訴える様になる。劉生の病状は全くこの経過をおっている様に思えるのである。
劉生が徳山に寄る気になったのは、この腎炎が大いに関係しているのではあるまいか。
金もなく、失意のうちに門司に上陸した劉生に、腎炎に伴う浮腫と視力障害、ものうさとけだるさとがあったとすれば、其後の行動もうなづけるものがあるのではあるまいか。徳山における劉生の作品については、岩城氏が専門的見地から調べて居られる。風景での油絵の絶筆となった徳山風景も、描き始めて約二時間程(画集の解説には、一時間ほどで気分が悪くなってやめたという。この風景での絶筆は一回の下塗りであるが、その色分けのみごとさに驚かずにはいられない。と記してある)で約七分通り出来上ったが、其後約二週間放置され、とうとう完成しないままに終わった。
根気が続かなかったのだろう。今、この絵をみていると、心なしか、満州旅行以前とはその色調が少し異る様に思える。つまり眼科医の私には、網膜疾患を病んでいる人の色調に思えるのである。そう思って画集を見なおすと、矢張り満州旅行前後で色調に変化があるように思えてならない。勿論、絵の出来、不出来を云うのではないが、少し気になるので専門家のY氏に見て貰った。
Y氏は「そうですね」とさすがに多くを語らなかったが、こうなるともう私の偏見俗説の類に入るかも知れない。

 弄脂調粉

日記によれば、劉生は十五日未明、突然心臓発作を起して倒れた。(岩城氏によれば十六日夜、前田氏十六日夜)最初呼ばれたのが武熊老であった事は先に記した。老の注射に依って一先ず小康を得たが、経過ははかばかしくなく、奥田、藤井両医師其他が呼ばれた事は日記其他にくわしい。十九日、突然興奮状態になり、間もなく昏睡状態におちいり、多量の汚穢血様液を吐出して亡くなった。二十日午前零時三十分。尿毒症であった。
「劉生が亡くなったので、武熊先生に頼んで近所の先生方に皆来て貰った。武熊先生が今更どうしてそんな事をするのかと言ったが、私は奥さんに、徳山中の医者が全部集まって一生懸命に治療したと云う事が云いたかったのだ。皆でうつした写真もあったんだが、どこかへなくしてしまった」と藤井成斎氏は云う。
これが日記にある「十名の医師が相互協力して最善の努力を尽くしたるも遂に及ばず」と関係があるのかどうかは知らない。
「蒐集と酒間に明けくれる日々からくる経済的、また心理的な焦燥、荒亡のなかの肉体的衰弱と虚無感、そして“撰ばれた一人”としての画面のうえの実現の課題についての自覚と絶望感、それらが混濁しつつ劉生の生活と心理を支配したであろうことはいうまでもない。が、それよりも、かっての麗子像の愛する美わしい「古典の美」の原型とは全く対蹠的な位置にあるグロテスク、卑近美、醜、倫理と古典美の否定的な陶酔を求めたといっていいように、ぼくには思われる」(土方定一)
或いはそうかも知れない。だが、歴史的現実にはむじゅんと謎が付きものであり、歴史の面白さとは歴史の謎の魅力の持つ面白さであろう。もっともらしい解釈など本当の歴史ではあるまい。

    湯呑と茶碗と林檎三つ  1917年
だがそれにしても、前記三氏の著書の内容の喰い違いはどうしたのであろう。劉生が倒れた日時、風景写生に出かけた日時、などなど、埋めなければならぬ余白は可成りある。 幸い当事者が御健在の様だから、是非穴埋整理をしていただきたい。文化事業とは本来こういうものを云うのではなかろうか。
これらの著書については、私には私なりの感想もあるが、今は田島日記から武熊老との出会いについて少し述べるだけにして、これ以上深入りはしないでおきたい。
蛇足になるが、劉生の死をきいた大連の佐々木秀光は「アトリエ」で
「十一月二十六日(二十五、六日とこの地での製作の展覧会が催されたが、先生は風邪気味だと言われて、ベットに横になっていた)展覧会を終ってホテルに戻った僕と二人の折、二十七日出帆のことが気のりがされないらしく『こんなで船に乗ったら、きっと病気をして、日本へついたらコロリと死んでしまうよ』と言われた。」
と出発前日の事を回顧している。猶彼は、当日四時に来る筈の医師永原氏が仲々診察に来てくれないのでイライラしていたが、田島氏からの電話で外出した。出掛けに永原氏への二十号の仕上げを頼むと、劉生はシブシブ筆をとった。夜になると別人の様に元気付いた彼は、ベットに入ると又「どうも明日船に乗ったら病気するような気がしてたまらない」と何度も言っていたそうである。
猶、佐々木氏の言に依ると、劉生は広島に寄るとの事であったが真疑の程は判らない。




人参図  1926年

終焉の地徳山における岸田劉生

岩城次郎(宇部市立図書館長・美術評論家)昭和三十八年(1963)七月七日

一 徳山まで

昭和四年十二月二十一日附の山口県地方紙の防長新聞は「満洲からの帰途岸田劉生画伯徳山滞在中危篤に陥る」 の見出しのもとに次のように報道している。
「去る十月二日大連満鉄に招へいされて渡満した東都画壇の新進作家岸田劉生氏(三九)は東京に帰途、十一月 二十九日徳山の元県会議員田島広吉氏の宅に立寄ったのを機として、徳山文芸協会主催で同画伯の画会を開催中 であったが、満洲で既に脚気を催していたのに加えて腎臓炎を併発したので爾来田島氏宅に加療中のところ十九 日七時頃全く危篤に陥った(中略)。最近の作としては昭和園に感激して画筆を揮った善種善果が有名であり、 最後の作品としては満洲で描いた里ケ浦風景の力作がある。」
当時、劉生の死を報じた他紙の報道に比べて地元の関係か真相を伝えて近い。彼の歿後、土方定一氏の『岸田 劉生』を初め武者小路実篤氏、ごく最近では東珠樹氏『岸田劉生ー椿貞雄の回想によるー』まで、かなり多く の劉生研究又は詳伝の著述があるが、終焉の地徳山における岸田劉生の動静については、先にあげた報道記事を 超えるものはない。これは故人の死が余りにも突然のそして遠くからの悲報であった事によるのかも知れない。 また徳山での製作として画集などに紹介されているものは柿二つと蜜柑二つを描いた静物と徳山風景の二点の ほかは見られないように思う。
黒田清輝の白馬会研究所に入って画業への道を踏み出し、二十一歳の頃に白樺派の文士達、殊に武者小路や長与 善郎らとの交遊を通じてゴッホ、セザンヌなどに触れることによって、内心の要求から自然を見ることを教えら れて自らの道を歩み、デューラー、ファン・アイクを経て宋元院体画の写実の影響を受け同時に初期肉筆浮世絵の魅力にひかれる、一方では京都時代から覚えた酒と遊びの世界への度を外れた傾斜から来た生活の乱れ、そこから「ヨーロッパ行きということや、満鉄招聘ということで急遽、大連に赴いていることなどを考えると、かえって岸田劉生が必死となって現在の生活から這い出したいと願っていたと想像されぬこともない。」(土方定一『近代日本の画家たち』)そのような時機にわずか三十八歳の若さで徳山の宿舎で亡くなっているのである。
劉生がヨーロッパ行きの資金作りの為に行った大連からの帰り徳山に寄ったのは十一月二十九日でありそれから死までの約三週間の滞在、それは文字通り彼の最後の時となりそれから後は多くの人々の愛惜と追憶の中に生きることになるのであるが、この期間に劉生みずからが何か自分の将来を予見するような言葉を遺していないか、それから先述の二点の他に作品をのこしていないかと、心当たりを通じて探してみた。殊に探査については徳山市立図書館長の国沢左奈為さんの熱心な協力を得て、当時、劉生と交渉のあった人々ー劉生が徳山での製作に終始そばにあって共に描いた前田米蔵(画号麦二、関西美術院出身、看板業)徳山滞在中の会計役を引受けた藤井成斎(経師屋、美術商)パトロン的存在であった木村和夫夫妻(防府市現住)それから彼が遊んだ料亭魚喜楼(現在廃業)主人浜田喜曽右衛門、栄亭主人伊藤栄作夫妻、彼の最後を診た医師の藤井佐一の各氏に会ってそれぞれの追憶の中から当時のようすを聞き、また製作の始終をも知ることができた。

 劉生終焉の田島別邸 旧位置は背後に見える劇場のところにあり、
 南向きに建てられていた。現位置は西向きになっている。

徳山の町は大連に随行した田島一郎の故郷であるが、どうして劉生が妻子や親しい人々の待つ鎌倉にまっすぐ帰らないでその地に寄ることになったのか、この経緯のついては、「はじめ田島から私に劉生を連れて寄りたいが都合はどうかとの問合わせがありました。マァ画会でもやれば滞在費くらいは都合がつくだろうと思ったので、寄っても良かろうと返事をやったのがあんなことになったのです」(藤井成斎)ということで、徳山に劉生の知人はおろか作品を知っている人がいたわけでもない。ただ想像されることは「満洲では彼の夢は無残に破れ、大金をとることは出来ず、二た月の旅行ですっかり日本好きになって帰って来た」(武者小路実篤『岸田劉生』)劉生自身にとって、灰色の満洲から日本のこの温和な瀬戸内海ぞいの街で、旅の疲れをいやしたかったのであろう。

二 徳山滞在

このようなことで十一月二十九日、劉生は徳山の駅に降りた。その時の模様を前田氏は「劉生先生が満鉄からのお帰りに田島君の心配で徳山に寄られることになったことは、そのころ画を描いていた私たちに取っては大きなよろこびでした。着かれた時に駅まで迎えに行きましたが、あのように肥った大きな方でしたが、何か顔色が悪くむくんでおられるのではないかとの印象を受けました」と語った。そして取あえずの仮の宿を当時の人達が田島別邸と呼んでいる東浜崎(現・平和通)にあった田島一郎の父で元県会議員の田島広吉の別宅と定め、ここがはからずも終焉の家となるのであるが旅装をといたのである。尚この家のあった場所は現在映画劇場となり所有者も代って旧位置から西に移り家の方向も南向きから西向きに建てられているが、原形はそのままに保存されている。
師走とはいえ、秋のなごりをとどめた温和な日がつづく内海ぞいのこの地方の風物は、荒々しい満洲の旅に疲れた劉生を慰め久しぶりに心の中に静謐と充実をもたらした最後の一時ではなかったろうか。『すっかり計画はもう出来ている。東京に帰ったら塾をつくる。その時には知らせるからすぐ来たまえ』(前田)と語ったりしている。それはともかく「着かれてから、四、五日もした頃と憶いますが、田島君の案内で私の家に(当時都町にあった)遊びにみえました。その時、庭になっているザボンを見て『美しい描いてみたい』と云われましたので、宿に持参しましたらそれが動機となったか徳山での製作が始まり、私も先生と一緒に描かしてもらいました」(前田)。

 桃図          椿花図          三行の書

このようにして徳山での製作が始まったのであるが、そのザボンに柿とざくろを描いた八号の静物が徳山で完成した唯一の油絵で、木村和夫氏の旧蔵であったが、そこを出てから戦災に会ったかどうかその所在がわからない。ただ木村氏のところから離れる時に同夫人が愛惜の余り描かした模写によって知ることができるのみで、上述の果物を描いた上部向って右よりに冬日小品劉生と黒色で筆太に二字ずつ三行に記してある。他に油絵では先述した柿二つと蜜柑二つの静物と徳山の切通しを描いた徳山風景の二点を何れも八号に未完成であるが遺している。この徳山風景は現在、県立徳山商工高等学校のある附近で櫛ケ浜を遠望する切通しであるが「徳山に着かれた時から身体の調子が悪かったのか描く時に色の調子が良く判らないと目をこすりながら作画しておられました。切通しを描かれたのは十二月十日頃のように記憶しますがその時もお伴して傍で描きましたが、二時間くらいでやめられました」(前田)とのことで、そして永久に筆を加えることなく終わったのである。
尚、「絵を描いている内、眼が見えなくなり、『目が見えない』と癇癪を起して、まもなく亡くなったように聞いている」(武者小路)とか、『馬鹿野郎』と呶鳴って息をひきとったなどと記したものがあるが、これは何かそのころの様子が誤り伝えられたのであろう。
油絵は以上の三点であるが、このほかに日本画で、昭和苑主長谷川藤七氏(終戦後徳山市長となる)のために大画仙全紙に善種善果の画賛のある桃、柿、びわ、ざくろなどを描いた大作と、前田氏のために描いた尺五の画仙紙に同じく淡彩のザボン、富有柿に菊と、藤井成斎氏の半切横もので秋山隠士の画賛をいれた栗の絵、それから飲代に周囲から余儀なく描かされたという、桃、ぼたん花、椿花、柿などをそれぞれ描きわけた小半切二十点、を描いたという。この中で善種善果は所蔵者が代り、長谷川氏のための為書と劉生并題の字が削られ、長さも縮められているが、劉生の最後の日本画大作として貴重な作品である。先の小半切二十点の内で下村稔医師(下松市)所蔵の桃図は保存極めて良く墨色、色彩など目もさめるばかりであり、木村氏蔵の椿花図もまた美しい。この他に長谷川氏に書いた和敬と魚喜楼主人に与えた三行の書とがある。

 和敬

 茄子三個、「吉夢之顆」と賛した牧渓風

「私は先生のそばで水彩で描いておりましたが、黒い色を多く使っているのを見て『渋い色は絵を誤魔化すからいけない。明るい綺麗な色を使いたまえ』と教えて頂きました」(前田)劉生は晩年『僕も少しタブローとして美しい絵を描いてみたい。宝石のような絵を描いてみたい』と語ったというが『宝石のような』との考えがここにも伺えるように思う。また『絵は美しいものである。むやみに大きいものより小品の方が美しい。女でも大女より小さい女の方が美しいだろう』とも話したとのことであるが、この言葉は「東西の美術を論じて宋元の写生画に及ぶ」と題して発表した劉生の画論の中の「宋元の写生画ではどうも大幅より小点の方がずっといい。画は大きいものを描くのは本当ではない小さいものを描く時は画事の他の体力的な努力は不必要となり、努力を画事にのみ集中出来る。そのことは描くべき対照により深く潜入出来ることであり、より画三昧に入れることである」との記述と通じるのである。事実、劉生の製作の跡を土方定一著『岸田劉生』の作品目録によって辿ってみると、最も大きいものは大正十一年の野島邸での個展の二人麗子飾髪図の四十号が一点のみで、大きさがこれに次ぐものは大正七年の詩句ある静物のほぼ三十号と大正十三年の童女舞姿の三十号二点で日本画をも合せた同目録のほとんど半数は十号以下の小品である。

    椿之図   1923年

そして『現在、世界を通じて僕が最も尊敬する絵かきは鉄斎よりほかにはない』(前田)と語ったという。このことは劉生が酒に酔ったときも云ったとのことであり、そして『ほんとの日本人が欲しい』と嘆じたり、『日本人はいないか』と呶鳴ったりしたと、藤井、木村などしばしば酒席をともにした人々からも聞いた。京都時代から晩年の鎌倉時代にかけて劉生は、「自分には知己を千年の前に得るということしか考えられない。たとえば徽宗皇帝のうちに知己を得るごときである」(土方)と語ったそうであり、京都時代からは油絵より日本画が多くなっているのであるが「しかも宋元画の厳しい写生よりも、だんだん八大山人とか石濤とか南画の影響を受けた、気分的な文人画式のものになってくるのである。これはやはり劉生としては本道から目をそむけるものと言わざるを得ないものであった」(東珠樹著『岸田劉生』所載ー椿貞雄、岸田劉生の人と芸術ー)のではあるが、彼はここでみずから南画の世界への傾倒を明らかにしているのである。
尚、ここで劉生がいつころから鉄斎に特に関心を寄せたかということであるが、鉄斎が亡くなったのは大正十三年十二月三十一日のことであり翌十四年一月四日の葬儀の夜は葬列の通った沿道はそれぞれ家の前に香炉を焚いて拝んだといわれるほどの盛儀であった。それは劉生の京都時代であるが絵日記の十二月三十一日の所にも翌元日の日記にも別段しるしていない。それから鵠沼から京都時代にかけて集めた古書画類の中にも鉄斎の作品はほとんど見当たらないように思う。これからすると京都以後の極めて晩年に急速に高まったもののように思われる。

 自画像 1929年

先述の不完全なものではあるが徳山での三点の油絵を併せて死の前年昭和三年ころからの最後の時期に属する作品を見る時に洋画としては異質なものの混交を感じる。若し彼が死なずにフランスに行っていたならば、ここまで来た東洋画の美の伝統への絵画思考を以てヨーロッパの美の伝統と対決するほどの気持ちではなかったろうか。しかし西洋に絵を習いに行く必要はないと、かねがね語った劉生は、以前にもまして徳山でも「フランスに見物に行くのなら別だが、絵の修業のために行くなぞ馬鹿の骨頂だよ。フランスなぞにわざわざ勉強しに行くものなぞ何もない。本当の美は東洋にある」(前田)としばしば云ったことからも、既にヨーロッパ行の意志はなかったと思われる。だとすれば「或いは死なずにいたら専心日本画をやり出したかとも考えられるのである」(東)との椿貞雄の見解があるが、それよりほかは無かったのではなかろうか。ともあれ岸田劉生は「東洋画の美の伝統を油絵のうへに生かすという生命かけの課題」(土方)のために「深淵に囲まれた断崖」(土方)からこの時は既に一歩を踏み出していた。
このように昼は絵を描いたり絵の話をしたりして、夜は料亭の魚喜楼や栄亭で遊び興がのると芸者の懐紙やありあわせの紙に口紅などを使って似顔や自画像などを面白く描いて皆を笑わせたということである。しかし、これらの酒席での酔墨の類は徳山もまた戦災を被むり当時の女達も皆どこかに散りぢりになって、今日ではほとんど残っていない。その中で十二月十日ごろに描いたという自画像を見たが、おそらく劉生の面影を留めた最後のものであろう。他に酔余『今日は雪舟より前を描いてやろう』と云って茄子を三個描いた「吉夢之顆」と賛した牧渓風のものと、宴席で女中に与えたという半紙に「三日月の光り出ぬまに、ちょっとかけいだす、こいのならいか人目が邪まか曲る横丁の柳かけ」の小唄を書いて柳に舞妓、三日月を描いたものがある。この小唄は劉生が得意であったらしく京都時代の戯画(ここでは柳と三日月はなく舞妓が後向きに立っているー東珠樹『岸田劉生』所載)にもあり、後に詳述する絶筆もこの絵と唄をかいた。絶筆を除く上述の三点は魚喜楼で描いたものである。

 小唄、柳、舞妓、三日月 1929年

「ともかく酒の気のきれたことのない人で、マァよくあんなに呑めると感心しました。酒さえあったらよいほうで料理はあまりむつかしくありませんでした。横浜の方から来ていた、おとよという女中がお気に入りで、たいていお座敷の世話をしましたが、芸者は、あい奴とか妻龍、つま奴などそのころのこの町での一流の妓達が四、五人いつも来ていました。小唄や三味線が上手でことに身ぶり入りのお岩の怪談は真に迫って女達をキャーキャーいわして興がっていた姿が今も目の前に浮かぶようです」(魚喜楼主人浜田喜曽右衛門)。そして、夜を徹して酒に明けることも再々であったらしく「田島と二人でかけあいで小唄をやる。つきあっていてはこちらがとても身体がもたないので十二時ごろまで相手をして、翌朝また迎いに行くといったことをしていました」(藤井成斎)との次第で酒代はかさんでくるし「会計役のようなことになった私が勘定にせめられて、とてもやりきれないので機嫌をとったりしてようやく小半切を二十枚ほど描かして、一枚二十円で売り歩きました」(藤井成斎)が、その頃の徳山では劉生を知る人はなくわずかに四枚しか売れなくて、例の油絵の唯一の完成作品ザボン柿ざくろの静物に木村氏から五百円出してもらって一時を凌いだとのことである。
海の精鋭に賑わった海軍燃料廠の町のころから酒豪を見なれた栄亭主人の伊藤氏の「あとにも先にもあんな酒の強いお方は見たことがない」との言葉にも「絵に行き詰っての悩みがあるのだろうか、この人は余ほどの、人に言えぬ苦しみがあるのではないかと思った」(木村)ほど、かつては「内にあっては美の前に拝跪しつつ、外に対しては憤怒に阿修羅ーー」(土方)であった劉生がここでは酒に阿修羅という姿に人々には見えたようである。


 小唄、舞妓(銀屏風)

三 絶筆そして終焉

大連の医者から武者小路に注意した「取り返しのつかなくなる」時が既にその時は劉生の背後に音もなく迫っていたのである。
「あれは、忘れもしません十二月十六日の夜のことでした。なんでも東京の方で有名な絵かきさんじゃということで、私方にも一つ描いてもらおうと、見えるたびに墨を磨って仕度くしておりました。その晩もいつものようにコップで酒を呑んでおられましたが、ちょうどそのころ新調した銀屏風に目をとめて『あれに描いてやろう』と立つとフラフラとよろめいて屏風の片隅に筆がつくと墨汁が下に流れました。それからサーッと柳に三日月と舞妓を描きあげられたので、ものの十五分もかからなかったのには驚きました。そして筆を持ったまま倒れるように脇息にもたれると『気分が悪い』と云って真蒼な顔になり油汗をかいて息づかいも苦しそうになられました。これはただ事じゃないというので、すぐに医者の山下(武熊)奥田(頼介)の両先生を呼びました。気分が悪くなられたのは夜の十一時ごろでした」(栄亭主人伊藤栄作)。
その屏風は六尺×三尺の一曲半双のものであったが昭和十七年八月二十七日の暴風雨のために損傷して現在は約四尺×二尺の小屏風に改装され、例の三日月の小唄の字と駆け出す舞妓の姿のみを留めている。幸いに前田米蔵氏の記憶による参考図があり原画を想像できる。

前田麦二氏の記憶による参考図

その夜は、その場に来合わせていた、あい奴と妹芸者の妻龍に栄亭の女中ゆく、とがつきそって、二階に移し徹宵看病して翌十七日に小康を得たので徳山中央病院に入院するため一まず宿舎の田島別邸まで引きあげることになった。二階からおりる時に「あい奴と女中ゆくが両脇からかかえるようにしますと『そんなにしなくともいいんだよ』とおっしゃってご自分で階段をおりて玄関から俥にのられました。それが俗にいう仲直りじゃったのでございましょうか」(栄亭妻女)。宿舎に移してからの劉生はもう動かすことが出来なかったらしい。しかし、「決して自分では死ぬとは思っていなかったと思います。亡くなる前日の十八日頃だったと憶えていますが『藤井君すまん。君にはいろいろ迷惑をかけているが、こんど鎌倉に帰ったら傑作を描いて送る』など云いましたから」(藤井成斎)。その傍らには終始、田島一郎と藤井成斎の二人がついていたという。そして「臨終の時は私が一人ついていました。洗面器を取ってくれというので、枕もとに持って行きますと腹ばいになって真っ黒なものを吐いてからあと、たくさん吐くとそのままぐったりとなりましたのでびっくりして台所にいた田島を呼んで、すぐ医者の手配をするやら大騒ぎになりました」(藤井成斎)。その時に診察した医師の藤井佐一氏の回顧によると「もう古いことになるし、カルテなども戦災で失ってしまってはっきり憶えていないが、田島別邸に移してから二、三度往診した。腎臓が悪かったし大連で強い酒を随分のんでいたとのことで心臓は弱っていたし胃潰瘍でもあって、どうにもならぬ状態だった。亡くなった時は宅診を切りあげて昼を早めに行ったように憶う。最後の症状は吐血して胃潰瘍であった。栄亭で倒れた時に或いは内部出血していたのかも知れない。今のように輸血などなかったし手の施しようがなかった」。このようにして危篤の状態に陥り、枕頭には海軍燃料廠病院の間軍医および塚越医師をはじめ、徳山中の医者十人ばかりがつめて凡ゆる手を尽くした如何ともすることが出来ず、田島、藤井成斎、前田、栄亭主人、あい奴らの見守るうちに十二月二十日午前零時三十分三十八才(満年齢)をもって劉生は静かに息を引取った。最後の脈を診たのは塚越医師であったという。

岸田劉生像

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