太田道灌

太田道灌像
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1432(永享 4)〜1486(文明18. 7.26) 室町中・後期の武将。道灌は法名で、幼名は鶴千代麿・源六郎、のち資長通称は左衛門大夫・備中守。父資清にひきつづいて扇谷上杉氏につかえ、扇谷定正の執事となった。1457年(長禄元)江戸城をきずいて居城とし、この年に父の指導で岩槻・河越両城の築城に着手したといわれる。
1476年(文明8)関東管領山内上杉顕定に、長尾景春が古河公方足利成氏とともにそむくと、定正と顕定をたすけて乱を平定した。しかし道灌の勢力拡大を扇谷定正・山内顕定に警戒されて1486年、相摸国大住郡糟谷で主君定正に暗殺された。定正は、道灌の働きをねぎらうという名目で館に招き、酒宴を開いた後、道灌が風呂場に入ったところを刺し殺したと
いう。
すぐれた政治家・兵法家・築城家だったが、歌人としても知られ、江戸城に文庫を設
け、和歌を飛鳥井雅世に学び、『慕景集』がある。また、有名な「山吹きの里」などの逸話がつたえられている。道灌による江戸築城(1457年)で、江戸は中世都市として発展した。
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