下記の京都新聞によれば、京都の松尾大社で山吹が見ごろだそうだ。

2005年4月21日(22:17)Kyoto
ヤマブキ
咲き誇る境内のヤマブキを楽
しむ参拝客ら(京都市西京区)
松尾大社でヤマブキ咲き誇る 見ごろは今週末

 京都市西京区嵐山宮町の松尾大社でヤマブキが見ごろを迎えている。満開は今週末になるといい、咲き誇る黄色の花を付けた枝がそよ風に揺れる様子に参拝者が見入っている。
 同大社には、八重や一重のヤマブキ約3000株が生えているという。楼門をくぐってすぐの一ノ井川沿いは、ほぼ満開。参拝者が石橋の上で記念写真を撮ったり、腰をすえてスケッチしたりしている。
 5月5日まで「山吹まつり」を開いており、24日には「神幸祭」などの行事が開かれる。また、写真や俳句川柳のコンテストへの作品も募っている。権禰宜の南美宜さん(41)は「今月末までは花を楽しめるでしょう」と話している。


新聞記事おわり

山吹といえば太田道灌である。下記の山吹の話はとてもよくできている。好きな話である。

道灌の山吹伝説

太田道灌鷹狩
太田道灌鷹狩の図 江戸名所図会
 太田道灌は扇谷上杉家の家宰でした。ある日の事、道灌は鷹狩りにでかけて俄雨にあってしまい、みすぼらしい家にかけこみました。道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか。」と声をかけると、思いもよらず年端もいかぬ少女(名を紅皿という)が出てきたのです。そしてその紅皿が「お恥ずかしい」と言いながらさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪でした。花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない。」と怒り、雨の中を帰って行ったのです。
 その夜、道灌がこのことを語ると、近臣の中村重頼が進み出て、「後拾遺和歌集・巻19に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王(かねあきらしんのう)が詠まれたものに

  七重八重花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞあやしき

という歌があり、詞書(事情説明)は『小倉山に住んでいた頃、雨の降った日、蓑を借りる人が来たので、山吹の枝を折って与えた。受け取った当人は何のことか分からずに帰り、後日あれはどういうことだったのかと聞いてきたので、返事としてつくった歌』とあります。その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか。」といいました。(みのひとつだに→「実の一つだに」と「蓑一つだに」)
 驚いた道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進するようになったといいます。歌道に明るくなってから、紅皿を江戸城に呼んで和歌の友としたという話です。
 道灌が亡くなった後、紅皿は大久保に(いおり)を建てて(あま)となり、死後その地に(ほおむ)られたそうです。


伝説おわり

 この話は湯浅常山著「常山紀談」(1739年)巻の一「太田持資歌道に志す事」が元になっているそうだ。
 なほ、この伝説では下の句は「みのひとつだになきぞかなしき」となっていて、今や「かなしき」の方が流布している。

私も一度、傘を借りに来た友人にやってみたいものである。

村井喜右衛門