喜右衛門は前にも述べてある通りに、漁業の根拠地を香焼島に持っているとはいえ、肥前の人々から見るときは、全く素性の分からない旅烏である。奉行所やオランダ商館や土着の人々が、しばしば着手してしばしば失敗した引き上げを、旅烏が引き受けたいというのであるから、かつ疑いかつ怪しみ、罵詈嘲弄の声は湧くがごとくに起こった。
いわく喜右衛門は鰯とオランダ船とを一つに見ているのだろう。いわく喜右衛門は巨額の引き上げ費用を着服して、夜逃げをする胸算用だろう。
佐藤権兵衛書状
いわく喜右衛門は他国人であるから、無責任に万一の僥倖を望むのであろう。これらの悪評が障害となったものらしく、喜右衛門の引き上げ願いは11月オランダ商館を経て奉行所へ繰り込んだのであるが、年内には詮議中とのみにて何たる指令もなく、翌寛政11年(1799)正月になって、奉行所役人加福安次郎・石橋助佐衛門・今村才右衛門3人の名儀をもって、引き上げ諸雑費はどのぐらい必要の見込みであるかとのことを、喜右衛門に問い合わせて来たのである。
扇子裏 喜右衛門自署「信 村井喜右衛門」
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