村井喜右衛門7

りさいずいひつ
理斎隨筆(天保8年)
(7)記録の相違、道理の一貫
 エリザ号引き上げは、今から125年前(1799年)のことであって、しかも万人環視の間に行われた事柄であるにもかかわらず、数種の伝書において、月、日、従業人数・船数などにおいて相違が認められる。
 そこは残念だが、喜右衛門が高潮と大風との力を利用したことは、明らかなる事実であって、自然の道理に一貫せられている。
 一口に潮の満干というと、はなはだ簡易なようであるけれども、時日と場所とによって非常に差異がある。元来潮は月と太陽との引力によって動くのであるから、一月の中でも朔と望とには大潮となり、上弦と下弦とには小潮となり、一日の中にも必ず2回の満干があって、毎日30分の差をもって規則正しく去来している。またその満干の差はどの位かというと、大洋の真中では著しく目立たないけれども、それでも8尺2寸5分位の差を示している。

ひとよやわ
一宵話(文化7年)
 それが陸地へ近寄るに従って種々の変化を呈し、満潮と干潮との差が、あるいは多くあるいは少なくなる。世界の港湾の各所について、満干の差を測量したものを見ると、英国のプリストル水道はほとんど50尺、北米のファンジー湾内は70尺にも達するとのことである。
 我国で満潮と干潮との差の最も多いのは、九州島原海湾の18尺で、最も少ないのは佐渡の二見港の9寸である。
 喜右衛門はもとより今日のごとき詳細なる測量を知っていた訳でもあるまいが、多年の経験によってうまく引き上げの時日と場所とを選んだのである。長崎の土生田浦は、我国で満干の差の最も多い島原付近である。
 引き上げた29日は、あたかも大潮満潮の時である。これに加えるに上は奉行の鼓舞奨励をいただき、下は数百の船夫・漁夫などが手足のごとくに働くから、天の時も地の利も人の和も合わせ得ていたのである。
 喜右衛門の成功は全く道理に合し、何の不思議もないと言わねばならぬ。ただあたかも沈没船の浮き上がった時、にわかに都合よき猛風の吹き起こったのは、一種の奇跡とも見るべきものである。

肥前公賜木
肥前侯から材木を賜る
 さてエリザ号の修繕は、直ちにオランダ商館の手によって取り掛かり、喜右衛門に属する船大工も加勢し、肥前侯から修繕用の松の巨材10本を賜って、工事も着々進んで行ったが、ここに当惑したのは難船の時に切り倒した大帆柱3本の補充である。なにぶんにも長さ14丈の用材は、とても日本で求めることが出来ぬ。やむを得ず長崎晧臺寺の山内から、長さ7丈8尺余り周囲1丈ばかりの大杉3本を切り出し、これを帆柱として全く修繕を終わったのは5月中旬である。
 船長スチュアートは喜右衛門に向かって、重ね重ねの厚情を感謝し、同月23日めでたく長崎を出帆しジャバへ向かった。

出船
修理も調い銅も積み終え出船

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