表紙6 2001.2後


昭和49年(1974)2月4日(月曜日)
毎日新聞

176年前、沈船引揚げ

一漁民、独自の工夫

オランダがチャーターの米国船

徳山に貴重な史料残る

[徳山]ペリー来航に先立つ55年前、交易のため日本を訪れた帰途、長崎湾口で沈没した米国船を、周防国都濃郡櫛ケ浜村(現山口県徳山市櫛ケ浜)の一漁民が、独自の才覚で引揚げに成功、内外で評判になるという事件があった。これに興味を持った日本の蘭学研究者とアメリカの歴史学者が、子孫の家に残された史料研究のため、相次いで徳山を訪れ、当時ほうびにもらったという酒びんも大切に保存されていたことがわかり、両氏は「歴史的に大きな問題を含んだ事件で、貴重な史料が多い」と3月に東京で開かれる日本海事史学会で共同発表する。
この船は寛政10年(1798)10月、交易のため、長崎を訪れたオランダ船”エリザ・オブ・ニューヨーク号”。オランダがチャーターした米国船で、長さ42メートル、3本マストの鉄張り木造船。
同船は帰国の際、長崎湾口で突風のため座礁、積荷もろとも沈没した。たまたま干しイワシ商売のため長崎にきていた都濃郡櫛ケ浜村在住の漁民、村井喜右衛門(当時48歳)がこれを請け負い、自分の財力で約150隻の船を動員、潮の干満を利用した独自の工夫をこらし、一ヶ月がかりで浮上に成功、船は無事帰国した。喜右衛門の功績に対し、毛利公は名字帯刀を許し、オランダ人もオランダ帽子やキセル、白砂糖、酒などのほうびを贈った。
事件は当時、内外に大きな評判となり、事件のてん末をまとめた”蛮喜和合楽”という一冊子が出版されたほか、長崎のオランダ商館長だったヅーフがその著”日本回想録”で「これによりて日本人は下層のものといえども、決して奇智と明敏とを欠かさざることを観るべし」(異国双書、斉藤阿具訳)と評し、ホークス編の”ペルリ提督日本遠征記”などでも話題になっている。
事件に関する数多くの文書や記録は徳山の村井家が代々保存してきたが、徳山市立図書館が34年に”蛮喜和合楽”を復刻したほかは私蔵されたまま。逆に、外国の記録でそうした事件のあったことが知られるだけで、実際は明らかにされないままだった。

ほうびにもらった酒びんも


ところが、蘭学史の研究で知られる文部省教科書調査官の片桐一男氏が、多くの史料が現存していることを知り、昨年10月、史料採集に来徳、さらに片桐氏から話を聞いたアメリカ・ジョージタウン大学の米中交流史専攻のリー・ハウチンス博士もこのほど村井家を訪れた。村井家本家は現在、櫛ケ浜で洋品店を営んでおり、当主・栄治さん(62)は喜右衛門から数えて6代目。両氏は村井さんからオリジナルな史料が豊富に残っているのを見せられ喜ぶとともに、喜右衛門がオランダ人からもらったという”酒入りフラスコ”14本のうち1本がいまなお同家の家宝として伝えられていることを知り、目を輝かせた。
ビンは8センチ四方で高さ25センチ深緑色の透明なガラス製。口はややゆがんで手作りであることをしのばせている。片桐氏も「伝来の素性がはっきりしており、当時オランダか米国で作られたものに間違いない。たいへん珍しい貴重なものだ」と太鼓判を押している。
両氏は(1)ペリー来航以前にも徐々に日米の交流がなされていたこと(2)オランダがフランスの攻略で本国を失い自国の船が出せず雇船貿易の形態をとっていたこと(3)欧米の技術を全く使わず、日本人独自の知恵と経験で大きな沈没船の引揚げに成功したことなど重要な問題を含んでいることを指摘している。
ハウチンス博士は「喜右衛門という無名だが偉大な日本人に心から尊敬と信愛の念を持つようになった。日米交流史の観点から、米国の史料とあわせて研究してみたい」と述べ、片桐氏も「良好な史料が多く残っているので、本腰を入れて調べたい」といっており、3月16日に東京で開かれる日本海事史学会での両氏の共同講演が注目されている。


新潮報
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