徳山市立図書館叢書 第6集
蠻喜和合樂
 表紙 |
昭和34年3月15日印刷発行 徳山市立図書館 徳山市中ノ丁
印刷者 徳山印刷株式会社 徳山市河東町
昭和33年秋、徳山市立図書館が読書週間の行事として「和蘭沈没船引揚げ者、村井喜右衛門展」を開催した。その結実として、翌年編集発行したものである。
序寛政10年戊午10月、オランダ船、長崎沖高鉾脇において風波つよく沈没す。数万斤の銅、その外諸品を積みしかば、これを挽き揚ぐること人力の及ぶ所にあらず。このままに海底にて朽ち果つるばかりなり。しかるに傑出の人ありて、この沈みしオランダ船を無難に引き上げ終わんぬ。この精力の手段古今未曾有、真に国家の至宝なりと、万国これを称美し、すなはち御仁政の余光、御恩沢を尊み奉る。この来由の始末行状をことごとく記し、蛮喜和合楽と標題し、上中下三葉にわかち、その画図をつぶさにして、四方の君子の亀鑒(きかん…手本、模範)に備うること次のごとし。
長崎版画 長崎湾図
蛮喜和合楽 上
そもそもオランダ人来朝は、寛永18年辛巳より御免蒙り奉り、年々渉来連綿たり。例の通り去る午の6月下旬入津、追々交易整ひ、同10月17日暮前に長崎のオランダ商館を打ち立ち、神崎脇へ出船す。在留オランダ人同所へ見送り、祝盃おさまりオランダ商館へ帰る。
長崎絵図1802年その夜順風ゆへ、程なく出帆用意にて釣り碇(長く延ばしあり碇綱をちぢむるなり)を致し、暫時休息の折節俄に風烈しく吹き来たり、波荒く船を揺り上げ揺り下ろし、高鉾脇唐人瀬(一名隠れ瀬昔唐船ここにて沈溺すよって名とす)へ乗り上げ、船底を磨り破り、垢潜ること湧くがごとし。雨しきりに、浪高く、狂風起り、今やこの船さかさまに覆らんとす。船中の驚駭(きょうがい)騒乱沸湯のごとし。
され共大洋渉渡に熟せしオランダ人、即時に大帆柱3本、斧をもって打ち切り、ポンプ(垢をくり出す道具なり)2挺にて船中水夫惣がかりにて死力を尽してはたらけども、しきりに湧き起る垢に精力疲れ防ぎ兼ねて見へしところ、この船に居る崑崙(くろぼう・名ウウノス、古カピタン召し遣い、およそ7年在留しこの度帰国す)カピタン(船頭のこと)へ告ぐるは、その身一人番船へ願ひ、長崎オランダ商館へ注進仕り、加勢を請ひうけ来らんと云ふ。カピタン悦び、バッテイラ(伝馬船のこと)を卸し、片時も急ぎ上陸せよと聞くとひとしく、ウウノス箭を射るごとく番船へ漕ぎ付け、右の変事を告ぐる。

寛政10年戊午10月阿蘭陀船於唐人瀬沈船
同11年己未正月防州喜右衛門挽揚絵図上
番船役人、町使い成田繁次・杉山勘四郎、飛船を仕立て、右ウウノスを召し連れ、大波戸(長崎上り場、海程およそ2里)より上陸し、オランダ商館表門をしきりに叩き、急変に付きオランダ商館員(ウィルレム・レオポルド・ラス)へ俄の擾乱を訴う。すぐに開門、その夜詰番乙名横瀬九左衛門・通詞本木庄左衛門両人へこのよし告げ、ラスへ知らすやいなや、小使い飛ぶがごとくに一統通詞へ触れ知らす。
一瞬のまに駈け付ける通詞岩瀬弥十郎・塩谷庄次郎・品川作大夫、此の3人に(名)レツテキ(名)ポヘット等の両オランダ人、崑崙ウウノス鯨船に飛びのりて、大波戸より艫増しにて押し切り押し切り難船場へ馳せ寄する。暴風高波甚雨烈しき危急、水夫オランダ人命限りの働きなり。
オランダ商館より来るオランダ人へカピタン告すは、レツテキばかり難船に残し、ポヘットは再び上陸し、急ぎ荷漕ぎ船を数艘御願い申し受け差し向かい候様に申し付け、直ちにポヘット右3人通詞の内岩瀬弥十郎召し連れ、御役所附き三原市十郎付き添い引き返す。なほ又成田・塩谷・品川3人申し談じ、木鉢浦・小瀬戸浦辺の漁船借り請け、急用助力たるべしと見送り番所へ相届け、鯨船頭へ申し付け、それより難船場へ漕ぎ付けるに、(海陸取締方)竹内弥十郎(隠密方)松本忠次(盗賊方)卯野熊之丞3人、水主召し連れ加勢粉骨尽し働く内、塩谷・品川もオランダ船に乗り込み、火水に成りて力を合すといへども、防ぎ難く、荷漕ぎ船加勢のこと、先刻より下役をもって浦々えその手当てあることゆへ、この助勢あらば防ぎ果せんものをと待つうち手に余り、今はかくよと見へたるところへ、追々大小の船漕ぎ付け漕ぎ付け、難船に飛び込みて荷物を船へ移し、数艘の引き船右往左往に木鉢浦さして引き寄する。

寛政10年戊午10月阿蘭陀船於唐人瀬沈船
同11年己未正月防州喜右衛門挽揚絵図上(在長崎)不時の騒乱火急の防禦、湧き上がる垢力に及ばず、浪に揺られて船は臼搗くがごとくなれども、先に帆柱を打ち切りしゆへ覆ることはなけれども、今沈むべく見へにける。御奉行所より御検使熊谷与十郎殿長谷川武左衛門殿其の外長崎諸役人通詞方とも、夜中に神崎迄飛船にて漕ぎ付けれども、風波つよく難船場へより付きかね、各朝六ツ時前にオランダ船え近寄り、数艘の引き船怠慢なく18日八ツ時に木鉢浦土生田濱へ引き寄する。まず碇を入れ、人数御改め、上下90人余無事にて着岸。さて御奉行所より御下知にて、当時長崎在留の船は左に記す。
大坂小新艘(23反帆900石積) 加州清徳丸(15反帆350石積)
加州幸吉丸(15反帆430石積) 小豆島栄宝丸(7反帆220石積)
長州大黒丸(5反帆130石積) 大村大黒丸(7反帆50石積)
大村久米丸(11反帆120石積) 大村宮市丸(9反帆70石積)
島原住福丸(15反帆300石積)
合9艘
右の船々へオランダ船荷物積み分け、なほ又90人余オランダ人残らず乗りうつり顧みれば船底へ潜る垢船中に充満して、19日朝辰の刻ついに深泥の底へ沈み入りける。素よりこの土生田と云ふは至って深き所にて海底より1丈3尺余りの泥海なり。
オランダ船大きさ、
○長さ 23間 ○人数 90人余
○幅 6間 ○柱長さ 14丈余
○高さ 6間 ○籏棹 3丈余
○石炮(いしひや)36挺 ○帆数 18片
○量目(おもさ)250万斤
以上
蛮喜和合楽 中


防州喜右衛門工夫ヲ以挽揚方仕掛け大略下

長崎湾図1840
抑(そもそも)此の蘭船の造り方は、挙く(ことごとく)銅鉄をもって巻き詰めし製なるゆへ、尖き(するどき)瀬へ乗り上ぐるといへども、側底など裂ける事なし。瀬は砕けても船は破れず、されども船底磨れ削れしゆへ、垢潜り入る纔(わずか)といへども、大洋激浪ひまなく、ついに垢船中に充満せし也。船の造り丈夫なる事は盤石のごとし。此の船新造よりおよそ百廿年余と云々。
十月十九日、蘭館在留ラス其の外召し連れ見分に出る。御代官始め諸役人方日々御見廻り、其の上木鉢濱辺に仮屋を建て、部屋々々しつらひ、沖かかり通詞方役割り仰せ付けられ人々、
午年番 石橋助左衛門 横山勝之丞
未年番 加福安治郎 今村才右衛門
右難船に付沖掛り役
岩瀬弥十郎
名村多吉郎 末永甚左衛門
(未正月献上物付き添い参府) 三島良吉
代わり 堀伝四郎
石橋助左衛門 塩谷正次郎
本木庄左衛門 品川作大夫
今村金兵衛 松村安太郎
馬場為八郎 楢林弥市郎
茂伝之進 川原太十郎
馬田源十郎 稲部玄八

防州喜右衛門工夫ヲ以挽揚方仕掛け大略下(在長崎)木鉢仮屋入口、長崎蘭館同様諸役人さぐり番迄日々相詰め厳重に仰せ渡され、夫れより沈み船上荷残らず取り上ぐるといへども、御用銅数万斤一斤も上ぐる事相成らず、カピタン第一に相歎き、御奉行所へ御願ひ申し上げ候のところ、尤もに思し召され、則御手形出る。
紅毛船難船に及び、木鉢浦浜手に引き寄せ之有り、垢多く差し込み、過半沈み船に相成り、殊に下積銅も多く之有り候、右差し水繰り上げ、銅取り揚げ方等弁利の手段存じ寄りの者は、申し出ずべし。
十月廿一日 出島乙名
紅毛通詞
右御手形出候上、猶又浜手水練の者共に仰せ付けられ、大勢取りかかり引上げ方仰せ付けられ候へども、取上げ仕方行き届かず、其の上厳寒の烈しき時に向かひ、人夫煩らひ、気丈に水底に潜り入りし者は、溺死なども多くて此の一挙(いちらく)は中々むつかしき模様なれば、御奉行所にも御心配遊ばされ、御仁恵の御沙汰いろいろ御評義あらせらる。かくの如き事ゆへ、此の御下知を仕果せなば、恐れながら上への御奉公也と、器量勝れし智巧勘弁の人々言上し、御免蒙り精力工夫百計を尽くせども、其の疲労のみにて労して功なく徒(いたずら)事となり、空しく月日をうつすぞ詮方なき事どもなり。

寛文長崎図屏風
爰に防州都濃郡櫛ケ浜村に住居漁仕喜右衛門と云ふ者、年来干鰯を商売し、肥前香焼島に漁場を構へ数年往還し、近浦近島々の網子共を数多引き随へ、大勢の者撫育に従ひ居りけるが、未の正月、伺ひ書を通詞方へ差し出す、
沖紅毛船浮き船の儀、私存じ寄り之有り候に付、揚げ方仕り度き旨追々申し立て候処、此の度各様より御上え御願ひ立て下され候に付、諸雑費入用等の儀は如何相心得候哉の段、御尋ね下され承知仕り候、右諸雑費入用銀高等、追って申し立て候所存毛頭これなく受け用仕る可く候、勿論私手内にて浮かし方に相成らず節は、謝儀たり共決して請け申し間敷く候、此の段御尋ね旁ら書き付けをもって申し上げ候、以上
未正月 村井喜右衛門
加福安治郎殿
石橋助左衛門殿
今村才右衛門殿
右書き付けをもって御願ひ申し上げし処、浮かし方御免仰せ付けられ、未の正月十七日より手配りし、同廿九日午の刻勘弁工夫をもって、さばかりむつかしき沈み船を積み入り銅ともに無事引き揚げ果せたり。(此の仕方引き上げ道具等絵図下のタンレン抄に有り)風順もよく帆巻き暫時に、土生田より木鉢仮屋の浜辺、カピタン望みの場所へ引き付けたり。其の手段妙策未然の工夫、挙く(ことごとく)的中せし事万人驚嘆し奇意の思ひをなす。

防州喜右衛門工夫ヲ以挽揚方仕掛け大略下
御奉行はじめ奉り長崎一統の悦び、別して蘭人とても人力に及ばぬ事、天災是非なしと思ひ切りたる処に、此の趣なれば、誠死したる人の蘇生せし如く、手の舞足の踏む所を忘れての悦び理(ことわり)なり。扨(さて)此の一件江府へ御宿次にて仰達せられ、引き上げ方図面等御注進あらせらる。且つ又右の喜右衛門へ御奉行所より下し賜る御褒賞、
防州櫛ケ浜 船頭 喜右衛門
其の方儀、沖紅毛船浮かし方の儀紅毛人より相頼み候の処、差しはまり出精致し、殊に自分入用をもって、早速浮き船に相成り、修理にも取り掛かり候段、誠に抜群の手柄、紅毛人は申すに及ばず、当所一統安心満足の事に候。之に依り褒美として銀三十枚之を取らせる。
未二月
此の如く仰せ付けられ、此の事九州・中国・四国鼓動して感賞せり。
蛮喜和合楽 下

蘭船荷揚げ図
村井鍛煉抄 下
奇妙不思議の村井が手段(てなみ)、彼の蘭船を仮屋陸地に引き上げしを、諸人群集し是を見る事夥し。先づ船底の形粧一鉄城のごとし。百有余日泥中に埋もれ浸りしといへども、依然として素の如し。尖き(するどき)瀬へ乗り上げ研り磨れしかば裂け破れもすべきに、只数点の星の如くに見へし是より、怒浪潜り入りしと見へたり。
蘭人立ち合い熟と観とどけ、一統申し上ぐるは、相改め候処修覆随分相叶い候故、此の段希ふ、則ち御聞き済みありて修理にかかるに、難風の時帆柱を打ち切り崩せし事当惑し、柱・帆桁の良材に差し閊へ心痛するよし聞こし召し、肥前侯より通詞本木庄左衛門へ仰せ付けられ、松木十本拝領仰せ付けらる。
○長十間巡り壱丈 ○長十間巡り六尺五寸
○長九間巡り六尺七寸 ○長八間巡り五尺
○長七間巡り六尺七寸 ○長七間巡り七尺
○長七間巡り六尺 ○長五間巡り六尺
○長七間巡り五尺 ○長五間巡り五尺
合わせて十本
右拝領仰せ付けられしかば御仁恵有り難く拝受し夫れよりも日本蘭人打ち混じり修覆昼夜怠らず段々成就す。然るに帆柱不足に付長崎禅院皓台寺山内の杉の木、長十三間余巡り壱丈、長同巡り九尺、長同巡り七尺、右三本を御願ひ申し上げて拝受し是を修造し、五月中旬再造完く(まったく)整ひ成就し高鉾脇へ浮け出す。

寛政11年己未5月阿蘭陀船造作並村井喜右衛門漁場附海上風景中岡手の御用銅・諸荷物追々元の如く船積み(中の巻にくわしく図す)相済み、同廿三日目出度く乗り切り出帆す。誠にかかる芽出たき船出意気揚々乎として蘭人舷(ふなばた)を撲って頓首九拝す。御仁政宇内に充満するというは今、聖代にすめる蒼生(あをひとぐさ)の仰ぎ俯して尊み奉りぬ。
喜右衛門由緒書
松平大膳大夫殿御家老宍戸美濃守殿
御領地防州都濃郡櫛ヶ浜
禅宗 村井喜右衛門
当未 四十八才
右の者、廿年以前より肥前領香焼島に旅宿を構へ、西漁丸に人数七、八人づつ乗り組み、毎年八月頃罷り越し翌年五月頃迄相詰め罷り在り候。尤も商買の儀は干鰯網元入れ致し、網子の者共へ仕入銀毎年前貸しいたし置き、干鰯にて取り入れ候て往還し来る。
右西漁丸は四百石積み十八反帆にて、一橋様御領播州飾磨郡小坂村吉田屋正五郎と申す者名株にて仕来る。則ち網船の船頭支配人は、
肥前領土井首 茂十郎 肥前領香焼島 嘉吉
同 勘兵衛 同 杢右衛門
同 武兵衛 大村領大浦 清蔵
同 小加倉 文右衛門 同 源太郎
同 深掘 喜三郎 同 助五郎
同 由次郎 同 富五郎
同 市平次 同 戸町 松右衛門
大村領三江 清右衛門 同 吉五郎
同 手熊 沢右衛門 同 大浦 七太郎
同 式見 久米七
右の者共壱人前網船七艘づつ所持す。網船大(60石)小(40石余)、西漁丸片船、西吉丸は喜右衛門弟村井亀次郎弐百石積十三反帆、右大船西漁・西吉両艘併せて網船大小七十五艘を引き上げに用ゆ。
浮かし方用具諸式
車大小 九百余 本柱 弐本
海中へ建て候本柱廿二本 同添え柱 百三十二本
カガス 八十斤 藁いちび(桧綱の類)五千斤
諸雑費およそ五百両ばかり
右喜右衛門、此の度の工夫仕果せし事沈み船始末併せて浮き船に成し手段仕方、絵図雛形にくわしく顕わし、江府へ御注進あらせられしに、四月にいたり御感状到来す。
防州都濃郡櫛ヶ浜 船頭 村井喜右衛門
其の方儀、先達て紅毛人沈み船浮かし方取り計らいの始末、松平伊豆守殿御聞き及ばされ、抜群手柄の段御賞美候、仍て御沙汰の旨申し聞かせ置く。
未四月
松平大膳大夫殿より
永代帯刀御免、御上下拝領
宍戸美濃守殿御領分、百姓惣触れ頭筆頭に仰せ付けらる。

蘭船出港図
誠に前代未聞の事ども、普く(あまねく)諸国へ聞こゆるといへども、長崎通行之無き御方々へ普く知らせの為、上中下三枚にし、其の画図くわしく記し、四方の君子に呈し侍る。
昇平の之化四海に充満し至らざる無き也。
而してより亦諸道通暁の人物乏しからず。
今せいさいに罹り神策智工真に逼る。
実に国用の器也。
故に賢君賞を賜る、這れ迺ち(これすなわち)
聖代の御慈潤、万世の之至宝也。
己未季夏 崎陽渉洋商客某謹誌 (印 中川)
蛮喜和合楽 解説

長崎絵図1796
解説
この蛮喜和合楽は、寛政十年(1798)十月、オランダ船(実は、オランダがチャーターした米国籍船という、6000石積)が長崎港外で沈没するに至った前後の事情から説き起こして、翌十一年二月、その船体を、周防国都濃郡櫛ケ浜村(現、徳山市大字櫛ケ浜)の一漁民、村井喜右衛門(1752―1804)が、工夫と才覚を凝らし、前後三十四日を費やして引揚げに成功し、再び同船を日本から無事船出させるまでの出来事を、上中下三枚の絵を中心にした読物にまとめたものである。その中でも、喜右衛門が苦心工夫した引揚げの手段方法が(本文には殆どこのことにふれていないが)実によく絵解きされていることに注目されたい。
この沈船引揚げの評判は、鎖国中の日本国内だけではなく、遠く欧米諸国にも伝わり、無名の一日本人村井喜右衛門の事蹟が、海外でも相当の話題になっていたことが、ヅーフ著の日本回想録やホークス編の米国艦隊極東遠征記等で知られる。

蛮舶卸貨図
この本を当館双書に入れるに当っては、本文は村井栄治家本により、三枚の口絵は村井醇郎家本によった。前者は、寛政十一年刊行当時の材料をもって、別の日本紙に貼付再編集されているために、その原型が厚手の紙質を使った木版刷のものであった以外は、大きさ、装幀、册数等については全く判らない。著者についても、奥書やその捺印から知られる商人の中川氏ということの外は、全く手がかりがない。後者は前者の写であるが、絵の部分は出来あがりの効果を考えて、これによった。また、変体かなを平かなに改め、句読点を増して読み易くした外は、原文の儘である。
なお、徳山市櫛ケ浜の喜右衛門ゆかりの両家には、この外蘭船引揚げに関する数々の文書・記録・図書類を所蔵されていることを附記して置く。
終わりに、快く復刻を許されました御両家に、厚くお礼を申し上げます。