防長地下上申第2巻


三 都濃郡 櫛浜由来
庄屋 平助
都濃郡櫛浜由来
一、脇野原 院内村
 一、右櫛浜と申す由来は、往古、厳島明神徳山御領黒神山と申す山、御住所に成られべしと思し召し給うの由候処、犬の鳴声聞え地下近きと思し召し、それより厳島え御越し遊ばされ候時分、櫛浜へ御揚がり成られ候時、浜辺え櫛を御落とし成られ候故、それより櫛浜と申しならわしたる由地下人申し伝え候事
歌に
周防なる黒髪山の杣木をば
櫛の浜にて削り捨てけり
 一、右小名の内脇の原と申すは、櫛浜町の脇にこれ有り故脇の原と申しならわしたる由に御座候、この原の内に大島殿屋敷と申す処御座候、その由来は往古、大島仁右衛門殿・大嶋作右衛門殿と申し候て御両人御座候由、右の御衆中南前浦手御支配をも成られたる由申し伝え候事
 一、小名の内院内村と申すは、往古よりこの処山伏住居仕られ候処故院内村と申し伝え候由、只今も山伏住居仕られ候
(刎紙にて)
一、当山方山伏        快照院
但し由来先祖九州より罷り越し、正大先達養仙坊と申す、それより数代相続現住まで8世、尤も寺号坊号山号等の由書も御座候処に、30年余り以前の出火に残らず焼失仕り候由に御座候(刎紙終り)
一、弁才天若宮社壱ヶ所    礒端に有り
右弁才天社、徳山御領大島山と申す山の内に弁才天の社御座候、往古より櫛浜浦に祭事仕り候、それに就いて社領三斗御除御座候、かの社絶破に就き、櫛浜より再建立仕る筈にて堂切り組み相成り候処に、飛騨守(毛利元次)様御神功(信仰)に付き徳山より御建立成られる可しとの儀にて御支(さしさわ)りに付き櫛浜へ勧請仕り、右の堂櫛浜へ建て、それより若宮と申し伝え候事
一、森壱ヶ所         田中に有り
この森の脇まで塩浜これ有りたる処故、浜田の森と申しならわし候由地下人申し伝え候、この外由緒は知れ申さず候、尤もならびに塩入と申す田御座候事
一、恵美須堂壱ヶ所 但し石にて細き雀堂  町の裏に有り
右櫛浜浦往古は立市これ有り、諸人集り申し候処に早晩の比や、他所人申すように櫛浜の塩しほどこれ無し由申し候得ば、地下人右の者へしほどこれ無し哉、これ有り哉と候て大分塩を喰わせ大喧嘩仕り、それより立市曳け申し候由申し伝え候事
一、船数84艘御座候
  内
 2艘     廻船
但し200石積より250石積まで、御運送米積み成られ御米船にて御座候
 37艘     いさば
但し20石積より48石積まで、この船の儀は年分九州表へ罷り越し諸商買仕り候事
 45艘     漁船
この船の儀は冬より明くる春まで生海鼠曳き御献上はりに相調え、尤も大坂表へも上せ申し候、小魚の分はがぜ手くりと申し候て、めばる・たなご・こち・かれいなど取り申し候、尤も右の内九州五島へ参り、いわし漁仕る分も御座候
右櫛浜浦小名由来書如是に御座候、以上
 寛保元(1741)酉の12月17日   櫛浜浦庄屋 平助(印)
  井上武兵衛様