一宵話 巻之三
文化七年発行
牧 墨僊 著
一宵話
◯和蘭の沈み船(附きたり、村井喜右衛門が働き、和蘭陀国へ鳴りひびく事)
異例の暮前に出航するエリザ号
和蘭陀人の銅を好むは、また類なき事にて、日本の銅を年々、彼国へ持ち行くこと限りなし。ここに寛政十戊午の年、和蘭陀人(船の長さ23間、石炮36挺、帆数18片)例の我国の銅をおもふままに満船に積み載せ、順風に帆を張り、帰国せんと、十月十七日暮前に、長崎の蘭館より神崎脇へ乗り出せば、跡に留まる蘭人も送餞(はなむけ)の祝杯終り別れて後、釣り碇し(のばし置ける碇綱をちぢむる事なり)しばし程ふる間に、俄に風悪く浪怒り、大船を揺り上げゆりおろし、高鉾脇唐人が瀬へ(一名は隠れ瀬、むかし此所にて唐船沈めリ、因って名づく)乗り上げ、船底を大石にて磨り破り、其の穴より水潜り入るに、折しも悪風暴雨大海真っ黒になり、さしもの蘭船もすでに覆らむとす。
木鉢浦阿蘭陀難船
平生大洋に慣れし蘭人、十四五丈の大帆柱を、大斧にて三本うちきり、ポンプ二挺にて(垢をくり出す道具)船中水夫惣がかりに、死力を尽くし働けども、湧き起こる潮水に精力疲れ、防ぎかねて見えし所、此の船の崑崙奴(くろんぼ、名はウウノス、カピタンに仕はれ、長崎に七年居りし者なり)進み出て「おのれ命を棄て、長崎へ注進し、救を乞はん」といふに、カピタン「よくも申したり」。バツテイラ(伝馬船の事)をおろさせ「それ急げ」といふや否や、ウウノス、箭の如く長崎番船へ漕ぎ付ければ、役人(成田繁二、杉山勘四郎)ウウノスとも飛船にて、大波戸(長崎上り場、海程およそ2里)より上陸し、蘭館の表門を打叩く、
ウウノス怒濤を泳ぐ 墨僊画
此の夜の宿番(乙名横瀬九左衛門、通詞本木庄左衛門)大いに驚き、このよし蘭人ラスへしらせ、夫れより惣通詞へ触れ渡せば、通詞に(岩瀬弥十郎、塩谷庄二郎、品川作大夫)蘭人レツテキ、ポヘット、ウウノスとも、鯨船にて悪浪中を、命かぎりに、難船の場へ馳せよせ、レツテキは難船に留まり、ポヘットは又上陸し「荷漕ぎ船数艘乞ひ来れ」と、カピタンが指揮により、三原市十郎なんど、ポヘットともに漕ぎ返せば、また鯨船の船頭にいひ付けて、木鉢浦小瀬戸辺の漁船を漕ぎ寄せ助けさせ、役人ども粉骨を尽し、火水になって大いに働く。(竹内弥十郎、松本忠治、卯野熊之丞、塩谷、品川などなり)
ケンペル日本誌出島図1727年
其の間に、荷漕ぎ船も追々馳せ付け、荷物を分け移し、数百の引き船にて、木鉢をさして馳せ寄すれども、風雨は烈しく、浪は高し。船底より潜る垢は、湧くがごとく、今はかうよと見えたるに、鎮台の検使も追々参られ、翌日十八日朝六ツ時より数百の引き船にて引き寄せ引き寄せ、八ツ時に土生田の濱へ引き寄せ、九十余人の蘭人も、小船にて上陸す。此の頃他国より長崎に湊がかりし居て、蘭人を乗せ、荷物を分け積み、漕ぎ廻る船には、大坂の小新艘(900石積)加州の幸吉丸(450石積)此れ等の船数十艘なり。
蘭船は、十九日朝、遂に土生田の深泥の底へ沈みにけり。此所は海底より一丈三尺余の泥海なり。抑(そもそも)この蘭船は堅固丈夫に銅鉄をもって巻き包みしものなれば、いかなる暗礁へ乗り上げても、岩は砕けるとも、側底(わきそこ)の裂け損ずる事なしといへども、今度は船底を岩角にて磨り削られ、少しの穴より垢潜り入り、船中満水となれるなり。
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