一宵話 巻之三
文化七年発行
牧 墨僊 著
一宵話2

南蛮屏風
南蛮屏風

(この船新造よりおよそ120余年歴るといふ)十月十九日より木鉢浜辺に、假屋を建て、沖懸りの通詞(石橋助左衛門、加福安次郎等)二十人余り役品を定め、厳重に備へ、沈船の上荷は残らず取り上げつれど、彼の数十萬斤の銅は、一斤も上がらず、これカピタン第一の歎きにより、鎮台より、

紅毛船難船に及び、木鉢浦濱手に引き寄せ之有り、垢多く差込み、過半沈み船と成り、殊に下積みの銅之有り、右差し水繰り上げ、銅取り揚げ方等便利の手段存じ寄りの者は、申し出べし。

十月廿一日 出島乙名
      紅毛通詞

尚も濱手水練の者に命ぜられ、大勢取り懸れども上らず。其の上、寒気烈しき時になり、勇むで水底へ潜り入る者は、大方溺死するのみにて、百計施すに所なく、いかなる者も精力尽きて、空しく月日を送るのみなり。

湾図
長崎湾図

ここに、防州都濃郡櫛ケ濱の、喜右衛門とて、年来乾し鰯を商ひ、肥前香焼島に魚場を構へ、常に往来して、近浦遠島の網子共を数多引き従へ、豪勢の者あり。未の正月、通詞方へ、

沖紅毛の沈み船の儀、私存じ寄り之有り候間、揚げ仕り度旨申し立て候所、此の度、各様より御上へお願ひ下され候て、諸雑費入用等の儀、如何相心得候哉の段御尋ね下され、承知仕り候。右諸雑費入用銀高等、追って申し立て候所存毛頭御座無く候。一切私の物入りをもって浮き方に相成り候はば、当秋紅毛人入津の上、紅毛人より謝儀として白砂糖指し送られ候はば、随分受け用仕る可く候。勿論私手内にて浮き方に相成らず候節は、謝儀たりとも、決して請け申し間敷く候。此の段御尋ね傍ら書き付けをもって申し上げ候。
以上                  村井喜右衛門

引き揚げ
難船挽揚之図 村井喜右衛門之を揚ぐ

とぞ書きたりける。これにより浮かし方仰せ付けられ、正月十七日より手配りし、廿九日午刻に、さばかりむつかしき銅積みの沈み船を、銅ともに、喜右衛門が方寸をもって引き揚げ、暫時に土生田より木鉢の假屋の浜辺へ引き付けしは、古今未曾有の手段妙策、最初より喜右衛門が工夫一つとして的中せずといふ事なし。

萬国にすぐれて、工み深く、天地も掌の上に測り、百萬里の大洋海も、隣往来の様にしなせる和蘭陀人も、天災是非なしとおもひあきらめ、手を束ね居りたりしに、実に死人の蘇生せし如く、歓呼の声おびただし。

オランダ正月
オランダ正月

此のよし、江府へ図面書き付けをもって注進あり。又鎮台より喜右衛門へ当座の褒美として、

           防州櫛ヶ濱船頭喜右衛門
其の方儀、沖紅毛船浮かし方の儀、紅毛人より相願ひ候所、指しはまり出精致し、自分入用をもって、早速浮き船に相成り、修理にも取り掛り候段、誠に抜群の手柄、紅毛人は申すに及ばず、当所一統安心満足の事に候。之に仍て褒美として銀三十枚之を下さる。
未二月

此の事、四国、九州、中国迄鼓動して感賞せずといふ事なし。
やがて江戸よりも、喜右衛門へ、

其の方儀、先達て紅毛人沈み船取り計らいの始末、時の執政某殿(松平伊豆守)の御聞に及ばされ、抜群の手柄の段御褒美候。依て御沙汰の旨申し聞け置。
未四月

松平大膳大夫(毛利齊房)殿より永代帯刀免許、上下拝領。宍戸美濃守殿領分百姓惣触れ頭筆頭申し付られ候。

貿易絵巻
広渡湖秀 長崎日蘭貿易絵巻18世紀中頃

喜右衛門由緒書。
松平大膳大夫殿内、宍戸美濃守殿領地、防州都濃郡櫛ケ濱村井喜右衛門(当未四十八歳)、右の者、廿年前より肥前領、香焼島に旅宿を構へ、西漁丸に人数七八人づつ乗り組み、毎年八月頃罷り越し、翌年五月頃迄在留し、商ひは、乾し鰯の網元入れをし、細子の者共へ仕入れ銀毎年前へ借し仕はし置き、乾し鰯にて取り入れる也。網船の船頭支配人、肥前の内に廿一人あり、一人前に網船七艘づつ所持す。其の網船、大きさ六十石より、四十石余迄なり。

今度も喜右衛門弟亀次郎が西吉丸、西漁丸両艘と、網船七十五艘を引き上げ方に用ひしといふ。浮き方用具は、車大小九百余、本柱ニ本、海中へ建つる本柱廿ニ本、同添い柱百三十二本、カガス五千斤、藁いちび檜綱の類五千斤、諸雑費およそ五百両ばかりとなむ。
扨(さて)紅毛船浮き上がりし後、委細に見れば、彼の垢の潜り入りし穴は、数点の星のごときものなれど、千丈の堤も蟻の一穴にて、遂に沈み船とはなりしなり。やがて修理にかかり、松杉長さ十三間に、廻り一丈ばかりより、長さ七八間に、廻り六七尺迄の帆柱、帆桁の材を十四五本下され、五月廿三日に、蘭人は愛でたくジャガタラさして乗り帰りしとなり。

おわり

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