天保13年(1842)
都濃郡櫛ケ浜浦地理誌 「15」
都濃郡 櫛ケ浜浦
当浦を櫛ケ浜と申すことは、上古市杵嶋明神七里巡りにあまる嶋に住まんことをこのみ、数の嶋山に経廻らし玉ふとき、黒かみ山よりこの浦に移り、玉の櫛を落し玉ひしより櫛ケ浜と号し候由申し伝へ候
郡庁評に曰く
市杵嶋明神は神代巻天照大神素戔鳴尊八坂瓊(ケイ・赤い玉)曲玉をもって化生神を市杵嶋姫命と号す、これ遠瀛(エイ・海)に居る者なり、神名帳安芸国佐伯郡伊都岐嶋神
ある書に曰く、推古帝ノ朝、内舎人佐伯鞍職恩賀嶋にあり、紅帆船来たり、船中に瓶あり、瓶中鉾立て、赤幣を着た三女神あり、告げて曰く、我厳嶋大神と名す、百王守護に来現、宝殿を恩賀嶋に造れと云々、ここに時推古帝22年12月叡聞に達し(天子の耳に入る)社をこの嶋に営む、市杵嶋の神号を用いこれを呼ぶと云ふ、格別嶋々を見巡り玉ふと云ふことを聞かず、そのうえまた櫛ヶ浜は嶋にてもなし、案ずるに黒髪山に対して呼なるべし、牛嶋あれば馬嶋あり、富田あれば富海あり、徳山あれば福川あるがごときならんか
一、竪横の事
竪10丁50間 南、徳山御領大嶋山ふもと長尾畠より 北、同御領船子町まで610間余
横2丁 東、同御領栗屋村境川中まで120間、西は海原にて御座候
惣囲り18丁
一、村内の小名の事
脇の原 浜田 柳ケ壼
一、山川形勢の事
当浦は山野これ無く、久米村光西寺川下須川北より流れ出で、末は一川に相成り巽へ流し浦方一円平坦の地にて御座候事
一、村内日請け土地合いの事
久米村へ引き続き山陰等これ無く日受け宜陽地にて、土は白砂、石は黒色にて御座候事
一、水懸り善悪水損旱損の事
当所の儀は水懸り宜しからず事々旱損多く御座候事
一、肥下草の事
当村田畠の儀は徳山御領入り作多く、下草刈り場等もこれ無く、漁浦の儀に付き干鰯その外の肥等相用い候事
一、気候寒暖植え付け物時節の事
気候は順囲仕り候、寒気四至(四方の境界)開け候所にて年に寄り候へ共雪も4、5寸位積み候へ共、早く解け先は暖気勝ち、尤も荒風の節は豊後路より真艫(まとも)に吹き来たり手強く御座候、夏は海辺の儀に付き涼しき方に御座候、苗代拵え彼岸過ぎより取り懸り3月節へ入り籾蒔き、5月節に入り水田植え付け、夏物蒔き付けの儀は4月節より蒔き附け、ソバ大根は210日より20日まで、麦は9月節より蒔き付け申し候事
一、田畠惣町数並びに石高の事
田畠数18町7反6畝8歩
高255石5斗1升4合
右宍戸孫四郎様御知行所
外に73石2斗3升 海上石
以上328石7斗4升4合
内
畠数8町4畝7歩
高64石9斗9升6合 畠方
73石2斗3升 海上石
田数10町7反2畝1歩
高190石5斗1升8合 田方
内
80石9斗8升1合 御上納辻
残り69石1斗4勺 作徳
一、天保13寅の年分御蔵積み現米の事
4石1斗2升5合
但し御撫育方名目をもって御囲い米5合5勺挽きの米に〆
3石5斗2升
但し同断御囲い米の分
2石7斗5升
但し寛政御囲い籾5合5勺挽きに〆
一、諸上納物の事
並米80石9斗8升1合 御米方御上納辻
銀1貫517匁3分3厘8毛 銀子方御上納辻
内
732匁3分 海上石
631匁7分1厘 畠銀石貫
46匁3分2厘8毛 浮役銀
107匁 門役銀
外に
銀22匁5分7厘
但し久米の内御預かり山立て銀と〆年々久米村一紙の内にて上納仕り来り候事
80文銭100目
但し干肴代、断前に同じ
現米11石5斗6合4才
但しお蔵入り為御馳走米石に付き3升5合宛召し上がられ候分
張り海鼠130桁(御買い上げ値段1斤に付き銀3匁2分宛)
内 9寸張り海鼠およそ500桁 8寸同130桁
海鼠子1912斤余(同断1斤に付き銀2匁4分7厘宛)
但し都濃郡へ御割り符2001斤の内櫛ケ浜浦へ相当る分、前断の通り
右仕入銀と〆銀1貫目無利借用仰せ付けられ候事、尤も年々11月より翌2月まで4ヶ月の間船数10艘、1艘に付き2人乗り、1艘諸雑用諸入目600目位、10艘分合わせ6貫目煎り海鼠干し上げ高およそ2000斤に付き1斤値段前断の通りに御座候事
一、御米蔵1ケ所
但し梁行き2間桁行き3間瓦葺き、建て替え素返取り繕い共に御給主様よりお調べ相成り候事
一、御高札場1ヶ所
但し梁行き1間桁行き2間半瓦葺き、建て替え素返取り繕い共に同断
一、村内往還の事
本往還にてはこれ無く、村内往来の儀は東は徳山御領栗屋村境より西は同御領船子町境まで3丁、坂等これ無く、尤も町中通り抜け遠石下松往来相成り申し候事
一、市町ならびに家並み居体高下の事
東西通り抜き町長さおよそ3丁余、町筋左右裏家共に、家数330余軒、居体中下入り交じり、勿論漁人町の儀に付き上の分住居はこれ無く、およそ2歩方瓦葺き8歩方茅葺きの事
一、家数の事
惣家数336軒
内
本軒 12軒
半軒 117軒
門男 207軒
内
1軒 酒屋職
2軒 大工職
6軒 船大工
4軒 鍛冶職
1軒 山伏
2軒 杣木挽き
2軒 桶屋
一、口数の事
男女1434人
内
男713人
内
庄屋 1人
年寄 1人
米計り 1人
盲僧 1人
女718人
牛1疋
一、住宅陪臣の事
御給主宍戸孫四郎様御家来
山本瀬兵衛殿
村井喜内殿
増原俊蔵殿
磯村源右衛門殿
(御弓通り)中野為吉
一、川の事
光西寺川 村内流れ3丁位
石川にて川幅秤5間位の事
下須川 同断
但し久米郷より流れ出候、末は一所に相成り、徳山御領坂田村に流れ出候、砂川にて川幅秤4間位の事
一、橋の事
石橋1ヶ所 長さ1間幅4尺5寸
但し櫛ケ浜町より3丁程東にこれ有り 懸調の儀は御給主様より相成り候事
石橋1ヶ所 長さ2間半幅2尺
但し栗屋村枝道にこれ有り、仕調の儀は地下より仕り候事
石橋1ヶ所 長さ2間幅2尺5寸
但し久米村への枝道にこれ有り、仕調の儀は同断
一、井手(堰き)の事
井手1ケ所 柳ケ壷にこれ有り 但し幅4間
同1ケ所 牛丸にこれ有り 但し同断
右井手関調の儀は久米村より相調え申し候
一、溝の事
溝1ヶ所 浜田村田中にこれ有り 但し溝幅2尺
一、樋の事
樋1ヶ所 柳ケ壷にこれ有り 但し樋口差渡し7寸
同1ヶ所 牛丸にこれ有り 但し同断
一、萩ならびに海辺へ里数の事
萩へ18里
三田尻へ海陸共に7里
室積ヘ 陸地4里半 海上7里
下関へ海陸共に25里
一、海上の事
但し海上漁場境の儀、東は徳山御領豊井沖墨岩より西は三田尻黒礒までにて、それへ対し先年より海上石73石2斗3升請け居り、年々石貫銀をもって上納仕り、なおまた海上御役目引き請け場所の儀は芸州境鎌苅の瀬戸より下は赤間関與次兵衛か瀬まで、公儀御役人様方御通船の節水夫御役目等相勤め申し候、海辺汐満潮より干落までの間30間、それよりまた沖およそ30間程沖船の懸り場深さ4尋半位、同所続き南の詰めに小踏と申す所御米積場これ有り、この所鱶さ尋位にて御座候事
一、船数53艘
内 伊佐波 7艘
漁船 46艘
内 釣船20艘
鯛網2張 鰯網8張
一、風俗の事
当浦の儀は惣て漁人に付き農業仕り候者わずかにて、食物不如意にて難渋者多く御座候事
正月元日より3日まで浦中一統休息仕り身分相応の規式仕り候、御仕成これ有り者は上下袴にて互いに祝詞申し述べ勤め合い仕り候、小躬の者羽織着用地下役座親類知音間浦中往来仕り候事
人日11日15日休息仕らず、家業早く仕廻候て地下中勤め合い仕り候、尤も正月計り家内安全のため社人山伏の間申し請け内祓い祈祷相頼み、小躬の者は米5合宛持ち参り年々順番にして祈祷相頼み、有り合わせの手軽き肴にて酒飯差出し候事
2月朔日3月3日一統休息仕り氏神参詣仕り、長立候家親族因意間祝詞出入り仕り候事
5月5日9月9日休息仕らず候、尤も6月28日住吉社御祭日に付き小祠は御座なく候へ共海上の神に御座候得は家々神酒相備え一日休息仕り候、農家の泥落しと同意にて暑中の労を休め申し候
7月15日16日一統猟漁相止め盆会の営仕り、寺参り仕り休息仕り候、8月15日は産砂神遠石八幡宮御祭礼に付き休息仕り、親類因意間参り候へは有り合わせの肴にて酒飯差出し申し候
婚礼取り組みの節は親類中集まり有り合わせの品にて一汁一菜にて賄い仕り、親類盃の儀は取り肴12種にて酒3篇に限り質素の賄い仕り候、近年は親類中の外は互いに申し合せ歓と〆取り遣り等も仕らず候、祝詞計り往来仕り候事
葬式の節は親類組合中相集まり旦那寺申し請け野辺送り仕り候、組合中より米1升宛持ち集まり酒なしにて一汁一菜の賄い仕り候、年忌仏事等の節も旦那寺親類招き請け仕り同断の振り廻し仕り候
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