蛮喜和合楽 下
蘭船荷揚げ図

村井鍛煉抄 下
奇妙不思議の村井が手段(てなみ)、彼の蘭船を仮屋陸地に引き上げしを、諸人群集し是を見る事夥し。先づ船底の形粧一鉄城のごとし。百有余日泥中に埋もれ浸りしといへども、依然として素の如し。尖き(するどき)瀬へ乗り上げ研り磨れしかば裂け破れもすべきに、只数点の星の如くに見へし是より、怒浪潜り入りしと見へたり。
蘭人立ち合い熟と観とどけ、一統申し上ぐるは、相改め候処修覆随分相叶い候故、此の段希ふ、則ち御聞き済みありて修理にかかるに、難風の時帆柱を打ち切り崩せし事当惑し、柱・帆桁の良材に差し閊へ心痛するよし聞こし召し、肥前侯より通詞本木庄左衛門へ仰せ付けられ、松木十本拝領仰せ付けらる。
○長十間巡り壱丈       ○長十間巡り六尺五寸
○長九間巡り六尺七寸     ○長八間巡り五尺
○長七間巡り六尺七寸     ○長七間巡り七尺
○長七間巡り六尺       ○長五間巡り六尺
○長七間巡り五尺       ○長五間巡り五尺
合わせて十本
右拝領仰せ付けられしかば、御仁恵有り難く拝受し、夫れよりも日本蘭人打ち混じり、修覆昼夜怠らず段々成就す。然るに帆柱不足に付、長崎禅院皓台寺山内の杉の木、長十三間余巡り壱丈、長同巡り九尺、長同巡り七尺、右三本を御願ひ申し上げて拝受し、是を修造し、五月中旬再造完く(まったく)整ひ成就し、高鉾脇へ浮け出す。
蛮喜絵図中
岡手の御用銅・諸荷物追々元の如く船積み(中の巻にくわしく図す)相済み、同廿三日目出度く乗り切り出帆す。誠にかかる芽出たき船出意気揚々乎として蘭人舷(ふなばた)を撲って頓首九拝す。御仁政宇内に充満するというは今、聖代にすめる蒼生(あをひとぐさ)の仰ぎ俯して尊み奉りぬ。

喜右衛門由緒書
松平大膳大夫殿御家老宍戸美濃守殿
       御領地防州都濃郡櫛ヶ浜
          禅宗 村井喜右衛門
               当未 四十八才
右の者、廿年以前より肥前領香焼島に旅宿を構へ、西漁丸に人数七、八人づつ乗り組み、毎年八月頃罷り越し翌年五月頃迄相詰め罷り在り候。尤も商買の儀は干鰯網元入れ致し、網子の者共へ仕入銀毎年前貸しいたし置き、干鰯にて取り入れ候て往還し来る。
右西漁丸は四百石積み十八反帆にて、一橋様御領播州飾磨郡小坂村吉田屋正五郎と申す者名株にて仕来る。則ち網船の船頭支配人は、
肥前領土井首 茂十郎    肥前領香焼島 嘉吉
同      勘兵衛    同      杢右衛門
同      武兵衛    大村領大浦  清蔵
同  小加倉 文右衛門   同      源太郎
同  深掘  喜三郎    同      助五郎
同      由次郎    同      富五郎
同      市平次    同  戸町  松右衛門
大村領三江  清右衛門   同      吉五郎
同  手熊  沢右衛門   同  大浦  七太郎
同  式見  久米七
右の者共壱人前網船七艘づつ所持す。網船大(60石)小(40石余)、西漁丸片船、西吉丸は喜右衛門弟村井亀次郎弐百石積十三反帆、右大船西漁・西吉両艘併せて網船大小七十五艘を引き上げに用ゆ。
浮かし方用具諸式
車大小 九百余      本柱  弐本
海中へ建て候本柱廿二本  同添え柱 百三十二本
カガス 八十斤      藁いちび(桧綱の類)五千斤
諸雑費およそ五百両ばかり
右喜右衛門、此の度の工夫仕果せし事沈み船始末併せて浮き船に成し手段仕方、絵図雛形にくわしく顕わし、江府へ御注進あらせられしに、四月にいたり御感状到来す。

          防州都濃郡櫛ヶ浜   船頭 村井喜右衛門
其の方儀、先達て紅毛人沈み船浮かし方取り計らいの始末、松平伊豆守殿御聞き及ばされ、抜群手柄の段御賞美候、仍て御沙汰の旨申し聞かせ置く。
未四月

松平大膳大夫殿より
永代帯刀御免、御上下拝領
宍戸美濃守殿御領分、百姓惣触れ頭筆頭に仰せ付けらる。

蘭船出港図

誠に前代未聞の事ども、普く(あまねく)諸国へ聞こゆるといへども、長崎通行之無き御方々へ普く知らせの為、上中下三枚にし、其の画図くわしく記し、四方の君子に呈し侍る。
昇平の之化四海に充満し至らざる無き也。
而してより亦諸道通暁の人物乏しからず。
今せいさいに罹り神策智工真に逼る。
実に国用の器也。
故に賢君賞を賜る、這れ迺ち(これすなわち)
聖代の御慈潤、万世の之至宝也。

己未季夏     崎陽渉洋商客某謹誌 (印 中川)

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