新嘗祭供御献穀斎田記念碑

2014.10.17更新


2012.4.24撮影
大正十四年 新嘗祭供御献穀斎田 正四位男爵国司直行書
(裏)  大正十四年二月  六日 拝命
          四月  十日 斎田式
          六月十七日 田植式
          九月三十日 抜穂式
          十月十五日 上納
          奉仕者    国広八助

周南市立櫛浜小学校東隣栗南公園内慰霊塔前にある。
以前は栗屋開作北にあった新嘗祭供御献穀斎田跡地(現ブルドック駐車場)に
建てられていたが、昭和三十年(1955)頃用地売買があり、栗屋坂田の国広邸に移設され、
昭和五十三年(1978)頃行方不明になったが、昭和六十二年(1987)八月一日地元有志の努力で現在地に設置された。


新嘗祭供御献穀斎田記念碑喪失と発見
昭和六十二年(1987)五月二日  櫛浜郷土史研究会

昭和六十年(1985)、徳山市制五十周年並びに櫛浜コミュニティー創立五周年記念事業として、郷土案内書「ふるさと櫛浜」の発刊が企画され、それらの史資料収集、原稿執筆の過程において、大正十四年の大きな事柄として新嘗祭供御献穀斎田の記録を取材した際、その明白な証拠である、新嘗祭供御献穀斎田記念碑の行方が現在(1985年)分からないため、郷土史を研究するものとして座視するに忍びないと発奮し、櫛浜郷土史研究会の総意を得て、岩本勝氏総指揮のもと、調査探求を始めた。

ブルドック駐車場、かつて新嘗祭供御献穀斎田記念碑が建っていた

兼重正次さん撮影

斎田跡。(3)の左側。昭和24年兼重正次さん撮影

栗屋坂田、かつて国広八助邸のあった所
最初に記念碑の建立場所(斎田跡地→山陽剪断→第一産業→ブルドック駐車場)から記念碑を移動した実務者、農業協同組合理事山本勇次氏の証言を最有力な情報として、度々話を聞いて調査した。
昭和三十年(1955)山陽剪断株式会社の創設に伴い用地買収後会社の要望により山本勇次氏が新嘗祭供御献穀斎田記念碑を解体し国広邸の前へ持って行った。
昭和五十三年(1978)高杉開発株式会社が国広邸と国広家の山林を団地にする際、高杉開発株式会社により持ち出され、海に遺棄するため防府市国衙の路傍に仮置きされる。

(史跡周防国衙跡
史跡名勝天然記念物保存法二依リ
昭和十二年六月文部大臣指定)

国衙跡の前付近の旧国道2号線
高杉開発株式会社による持ち出しを知らなかった我々は、どうしても見つからないので、再々度山本勇次氏から聞き取り、折衝調査を進めると、同氏は以前久保市の辺で見掛けたと思い出されたので、その後数度に渡り付近の石材店や造園業者を調査したが、新嘗祭供御献穀斎田記念碑を探しだすことはできなかった。
昭和六十二年(1987)二月末頃再び山本勇次氏に要請して本人が現場に行き、調べて貰ったが分からなかった。いよいよ手の打ちようがなくなり、ほとんど諦めていたところ、思いがけなく、昭和六十二年(1987)四月四日、櫛浜郷土史研究会例会で、小嶋利太氏より以前支所長をしていた時に新嘗祭供御献穀斎田記念碑について問い合わせがあったとの発言があり、再び希望をもち、駄目を承知で、四月六日小嶋利太氏の案内で浅田実氏、岩本勝氏、温品鎮夫氏他一名が、下松市久保岡市の日の丸印房店主有田房二(霞山)邸に行った。

下松市久保岡市日の丸実印神社
驚くなかれ奇遇にもその記念碑が庭に、丁寧に榊と共に祀られている。早速有田氏に事情を説明して交渉したところ、有田氏は喜んで引き取りに応じてくれた。
久保岡市の有田氏が回顧されるには、昭和五十三年(1978)頃、商用で萩に行く途中、防府市国衙の道辺に、海に放棄される寸前の土砂と石の群れを見つけ、自宅の庭石にと思い貰い受け、トラックを雇い、ウインチで揚げ、石面を見てこんな大事なものがと驚き、自宅庭に丁寧に安置されました。

有田房二(霞山)邸門扁額

有田房二さんと新嘗祭供御献穀斎田記念碑
有田氏は兼ねてより、同郷である岩国病院長文学博士庄司忠先生の、金石文の研究に敬慕しており、こんな大切な記念碑が粗略にされている事を嘆かわしく思われました。神官の橘正先生と郷土新報の田村展祥先生に相談して、徳山教育委員会や櫛浜支所などにお話をされましたが、一度見に来られただけで、その侭時代は流れ、有田氏が丁寧に敬慕の念を抱いて、今日まで合掌礼拝し守ってこられました。
交渉は大変順調に進み、数日して記念碑の引き取り方法につき具体的な打ち合わせをして、その作業を石丸組社長石丸勝氏に相談したら、快く引き受けて頂いた。



昭和六十二年(1987)八月一日  櫛浜郷土史研究会

新嘗祭供御献穀斎田記念碑再建式典1

新嘗祭供御献穀斎田記念碑再建式典2
新嘗祭供御献穀斎田記念碑の再建
大方の協力に依って、昭和六十二年(1987)五月九日、櫛浜に帰還した新嘗祭供御献穀斎田記念碑を何処に建てるかを関係各位と協議し、元の在所に建てるのが最良とは言え、元の場所は大きく変化しているので、国広氏に縁のある道貫田、栗南公園が最適の地と判断し、徳山市に用地の使用を申請し、許可された。
昭和六十二年(1987)八月一日、十七時から徳山市立櫛浜小学校東隣栗南公園慰霊塔前広場において、神官橘正氏の祭司のもとに、石丸勝コミュニティー推進協議会会長、西村孝櫛浜支所長、村井栄治櫛浜コミュニティーセンター所長、栗南各自治会長、櫛浜郷土史研究会員、並びに、国広翁令孫婦母子等々多数の列席のもとで厳粛に盛大に新嘗祭供御献穀斎田記念碑再建式典が取り行われた。



新嘗祭供御献穀斎田 全景

大正十四年二月六日、時の太華村長国広八助は山口県を代表して新嘗祭
に供えるお米を宮中に献上する栄に浴した。太華村栗屋開作北の五畝余歩の田が
これに当てられた。周囲を竹矢来で囲み、植付、草取、収穫等すべて神事をもって行った。

斎田 神事

斎田 鍬入式

宮内省御下賜状

斎田 御播種式

斎田 田植式

斎田 草取

斎田 抜穂式

奉仕者国広八助邸宅

無事奉仕をおえて詠める色紙
今年大正十四年新嘗祭供御の
志らけ米をけふ十月十五日あらたに
をさめまつりてよめる
            八助
にいよねを
ささげまつりて
おほみわけ
おほせはたしし
けふぞうれしき


明治六年山口に生まれ、萬屋・国広家の養子となり、第八代の当主として家業の酒造業を継ぐ。
性穏厚、聡明にして、常に主導的立場にあった。初代農業協同組合長を始め、村長、県議会議員等数々の要職を歴任、昭和十一年、櫛ケ浜尋常高等小学校新築移転にあたり、校地の無償提供など村の公益発展に寄与された。
晩年絵を描くことを好み、華城に師事し、雅号を「栗南」と言った。
昭和三十六年六月没、年八十八歳。
奉仕者国広八助

吉祥院本堂にある国広八助が描いた屏風

国広八助墓碑

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