蛮喜鍛煉書

蛮喜和合楽上

出島
出島
そもそも、オランダ人の来朝は慶長5年(1600)4月19日デリーフデ号の九州豊後臼杵湾佐志生村沖漂着より始まり、平戸へは慶長14年(1609)より寛永17年(1640)まで、同18年(1641)午の年より長崎へ入津御免相成り、今のオランダ屋敷はもと南蛮人が住む。その後南蛮人は日本渡海を御停止ありて、その屋舗をすぐにオランダ人へ仰せ付けらる。今の扇ぎ出嶋はこれなり。

蘭船図
阿蘭陀船図
しかるところ、寛政10年(1798)3月6日に出嶋一円に出火す。4月24日カピタン、ヘイスベルト・ヘンミーは遠州掛川にて病死、天然寺に葬らる。同年10月17日夜大風にてオランダ船が難船し、木鉢浦へ引き入れ沈没、防州都濃郡櫛ヶ浜村の回船業村井喜右衛門が工夫をもって浮き船に相成る次第、以下御覧あれ。

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