天保8年11月理斎志賀忍著
理斎随筆

理斎随筆 巻の三

voc皿
〔一〕近き頃摂州住吉の浜辺に、新田開発のことありて、目論見の者かの地におもむきて、そのつとめごとをなしけるが、とかく様々の障害出来て、病にかかりなどするより、また外の人々かはるがはる参りて計らひけるに、皆々品は替れども、ただ病災などにて、後には神のをしみ給ふにや、神罰なるやと語り言ひ罵り合ひける程に、人々恐れて、この地のつとめを忌み避くるようにてありしを、沢木定明てふ者仰せごとを蒙りてかしこに至り、住吉の神前に祈りて奉りし歌あり。もっとも17日ものいみをなし、心中に深く祈りて、

   あらみ田をつくるも神のめぐみにて国のこほりはにぎはひにけり

かくありて、そのつとめごとをなしけるに、何の障ることなくて、新田開発成就せしとなり。これまた神の納受応護ありし歌の徳仰ぐべし。尊ぶべし。また天明5年には、大いに旱魃にてありしとき、亀戸天満宮にて雨乞ひの祈りありし時、丹精をこらし詠歌の徳あらはれて、大いに雨降りたりし。そのことを記したる文に、
 天明らけき五つのとし6月3日より9日まで7日のうち、連歌の片歌一句、和歌一首日々連ねて、
 天満宮のうつの広庭に雨を祈りて、百姓(あをひとくさ)のために心をこめて深くねぎごとを
 祈りて7日満ちぬ。しかはあれど、祈りのうち折々雨降りけれど、しくしくも降らざりければ、
 9日の夕べにかくなん言ひあげたり。

   心に祈る神はあるかは              昌 徳 上

 となん連ね、歌の下を言ひ上げてより、中の1日まで3日祈る。11日の暁の夢に神の告に、

   あめつちの和らぐ光りあらはれて

 夢さめて、あたりの人にかくと語り合ひぬ。時の間に雨降り出し、鳴神轟き、百姓の喜び、
 やつがれも祈りし甲斐ありて、なをひたすらこの神の恵みを仰ぐのみ。あなかしこあなかしこ。

亀戸天満宮1亀戸天満宮2
亀戸天満宮雨乞い成就

これ神の感応いちじるし。もろこしにてはその人の至誠の徳をもって、神の来格あり。我朝には赤心をこめたる詠歌に、天神地祇も応じ給ふ。今さら改めて言ふに及ばず。この理いかなればと思量するに、これのみぞ人の国より伝はらで、神国の言葉の道なる故なるべし。
voc皿2
さてまた古文に見えたる神風のことは、蒙古のえびすを吹き払ひし試しを初めとし、まのあたり親しく見たることあり。予、長崎在勤せし時、寛政10年午10月には紅毛船帰帆せんとせしに、高鉾と言へる処にて、唐人瀬と言へる岩上に乗りかゝりて船底を損じ、海底の滓(みくづ)とならんとせしを、防州串が浜の村井喜右衛門と言へる者、智功をもって船を挽き上げたりしは、遖(あっぱれ)のことどもにて、唐紅毛人をはじめとして、各々耳目をおどろかしぬ。さて船は揚げ果せたるが、その損じたる処を修理せざれば、乗り渡ることならず。これを経営せんには、便宜の場所に船を挽くべしと、かの揚げ方に用意したる左右の網舟に、〔割註〕都合75艘の大小の舟々あり。」各々帆をかけ、浜辺の方3、4丁ばかりの処へ引き付くる手段なり。しかるに孔明が風を祈りしと言へるごとく、十分に帆は掛たれど、欠くところのものは風なり。ここに喜右衛門数年信ずる住吉大明神を一心に祈念するに、たちまち一陣の順風大いに吹き起りて、帆に風をうけたるほどに、一瞬の間に紅毛人望みの浜に船着きて、後に風は止みて、海上は畳を敷きたるごとく成りし。これ村井が誠心、予、親しく見たり。住吉といひ、長崎といひ、所はかはれど、神国の神国たるところ、不測(ふしぎ)なること仰ぐべし仰ぐべし。

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