2006.2.10

共栄社石灯台、親水公園にある
東浜崎の石灯台
 明治時代を迎え、あらゆる面で著しい発展をとげた 徳山の地は、古くから天然の良港に恵まれ海上交通の 要衝でした。その頃、徳山港のシンボルとして、その 役割を果たしたのが当時の東浜崎にあった石灯台です。
 この灯台は、1893年(明治26)に当時の「共栄 社」の代表の光永又之丞によって建立されたもので、 ランプによって点灯していました。その後も役目の終 わったこの灯台は、徳山の明治を象徴する建造物とし て、その雄姿は今も人々から親しまれています。
 戦後の都市計画で、フェリーボート基地ヘ移設され ましたが、建物の陰になって、行き交う船舶からはよく 見えませんでした。平成14年3月に、船から一番よく 見える徳山湾頭の親水公園内に移転されました。
この石灯台は、この地方最古最大のもので歴史と伝統 のある徳山港として再び着目されています。
  平成17年3月
   周南市教育委員会


共栄社石灯台、夕影

共栄社石灯台のライトアップ

夜の共栄社石灯台

共栄社石灯台、夕影2

共栄社石灯台2
明治17年、大阪商船が3日目ごとに徳山に入港するようになり、村内はにわかに活気づいた。これに対抗するように徳山の有力者、光永又之丞、宮崎新作、豊島嘉兵衛、浅田義一郎、小沢松三郎の5人は各1万円を出資し、5万円の資本金で蒸気船問屋「共栄社」を設立した。
航路は馬関航路をはじめ大阪、博多からしだいに航路を延長し鹿児島、山陰、北陸、北海道まで就航した。
明治28年には9隻の船を持って活躍したが、大阪商船と張り合った馬関航路では格安運賃で乗船させたり、航海技術の幼稚さから再三衝突を繰り返して打撃を受けるなど経営は多難であったが、共栄社の活躍は徳山村並びに都濃郡一円の経済発展に大きな影響を与えた。

最初東浜崎にあった頃の共栄社石灯台(昭和10年)

東浜崎にあった共栄社石灯台裏側(大正8年)

周防灘フェリー乗り場に移設された共栄社石灯台
共栄社代表光永又之丞によって東浜崎に石製の灯台が建てられた。ランプによって点灯していたが、戦後都市計画のため移設された。

共栄社広告(版画商工案内)明治20年

共栄社防長新聞広告、明治17年12月
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