徳山藩館邸跡

2012.7.31周南市文化会館

徳山藩毛利館邸御門・銅版エッチング
徳山藩は、元和三年(1617)毛利輝元の次男就隆が、兄秀就から周防国都濃郡において
三万石の地を分知されたことに始まります。
就隆は、初め館邸を下松(御屋敷山そば法蓮寺付近の「古御屋敷台」)に設けましたが、
慶安元年(1648)に海陸四通八達の交通の要所である野上村の立地に着目して
ここに移転し、同三年、野上を改めて徳山と称しました。
その後徳山藩は、藩の改易(万役山事件)・再興を経て、明治四年(1871)藩を廃止し
山口藩に合併するまで、九代二百五十四年にわたり城下町として繁栄を続けました。
徳山藩は、国持ちや城持ちの大名と異なり館邸には堀や壕もなく「御館」といったが、
天保七年(1836)に幕府から念願の「城主格」(四万十石)を許可され、それ以来、
館邸を「御城」と呼びました。
徳山市(周南市)文化会館は、この由緒ある地に建築したものです。

徳山藩毛利館邸御門
周南市文化会館

徳山藩毛利館邸・銅版エッチング
周南市文化会館

徳山藩毛利館邸
周南市文化会館

周南市文化会館

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