久保白船句碑

2012.7.31徳山動物園前庭

久保白船句碑
徳山動物園前庭
踞(うづくま)ればふきのたう
白船
と彫ってある自然石の碑があります。
白船は、本名を周一といい明治十七年(1884)熊毛郡平生町佐合島に生まれました。
山口中学在学中から俳句を作り始め、のちに萩原井泉水の新傾向俳句誌「層雲」の
仲間として活躍しました。
大正五年(1916)に子女の教育のため徳山に移住し、佐渡町(現本町)に文房具と
書籍の店を開業するかたわら、「雑草の会」を主宰しました。
白船は昭和十六年五八歳で死亡しましたが、遺された書きものに「ふきのたう」があります。
この句碑は、彼の死後、茶の湯、俳句の友であった青木朝介と水仙花の配慮により、
昭和十七年(1942)に徳山公園双子堤の小丘に建立されました。

種田山頭火句碑
徳山動物園前庭
新しい
法衣いつはいの陽か
あたゝかい
山頭火
と刻まれた平成三年(1991)に親友の久保白船の句碑のそばに建立された種田山頭火の句碑です。
白船夫人清子さんに法衣を仕立ててもらった時の句です。
種田山頭火は明治十五年(1882)生まれの、大正・昭和前期の俳人で、
自由律の俳句誌「層雲」で活躍しました。

岩井勝次郎翁頌徳碑
徳山動物園前庭
大阪の豪商で株式会社岩井商店(日商岩井)の経営者であり、大正五年に徳山に進出し
日本曹達工業株式会社(徳山曹達株式会社)、大阪鉄板製造株式会社(徳山鉄板株式会社)を
相次いで創設し、工業都市徳山発展の基礎を築いた功労者である。
昭和十一年七二歳で死去したが、氏の功績をたたえ昭和十二年十二月二一日、
遠石三丁目薬師堂上の高地に碑を建てたが、人々の参詣があまりに少ないので、
昭和十七年徳山公園に移設し、現在も動物園前にそのまま建っている。
頌徳碑の由来
岩井勝次郎氏は文久三年(1863)四月十一日京都府に生まれ海外貿易の振興と国内産業の
育成に貢献されたわが国実業界の先覚者であります。
当地の徳山曹達株式会社、日新製鋼株式会社も同氏の創設によるもので
事業を通じ徳山市の発展に寄与されました。
茲に頌徳碑を建て永くその遺徳を讃えるものであります。

贈従四位飯田先生旌功之碑(徳山動物園内にある)

贈従四位飯田先生旌功之碑
飯田忠彦は江戸時代後期の歴史家です。
「大日本史」に記録されていない、後小松天皇以降の四百二十年間の歴史を著書「野史」に書きあらわしました。これは、完成までに三十年以上かかった二百九十一巻もの大作です。
しかし、飯田忠彦は尊王攘夷派の指導者と思われて「桜田門外の変」の時に捕えられました。これに憤慨し万延元年(1860)に割腹自殺をしてしまいました。
時に六十三歳でした。
この碑は、大正二年(1913)に飯田忠彦の功績を称えて有志によって建てられました。

遥拝石(ようはいせき)徳山動物園内にある

遥拝石
毛利就隆は慶安三年(1650)に、下松から邸宅をこの地に移しました。この時、地名を徳山と改め、就隆を初代藩主とする徳山藩が名実ともに成立しました。
この遥拝石は三代藩主、毛利元次が朝夕座って、太華山の山頂にある仏像を拝んだと伝えられる石です。


表紙へ