(2)時代背景

市兵衛の時代、櫛ケ浜の石高の約313石の内、海上石が約73石であった。海上石とは、その浦に与えられた一定範囲の網代の石高であって、受け浦には石貫銀(一石銀10匁)と海上御役目が賦課された。


昭和27年(1952)奈良飛鳥園 小川晴暘さん画 「櫛ヶ浜の海岸」

○当時の海上御役目は
九州御大名衆御通り(宝暦の頃から陸路)
朝鮮通信使上下(宝暦14年、11回目が最後)
殿様御廻国
御上使御通り
御役人上下
の際、引き船・水船、3人乗り、20艘を差し出すことであった。
網代及び海上御役目の範囲は『風土注進案・天保13年』に次の通り記されている。市兵衛没後約100年後の記録であるが、海上石に変動がないので、これらの範囲にも変動はなかったものと思われる。
「海上漁場境の儀、東は徳山御領豊井沖墨岩より西は三田尻黒磯までにて、それへ対し先年より海上石73石2斗3升請け居り、年々石貫銀をもって上納仕り、なおまた海上御役目引き請け場所の儀は芸州境鎌刈の瀬戸より下は赤間関まで」
小浦の櫛ケ浜にしては、過大と思われる海上御役目と、しばしば起こったイワシ漁の不漁が、櫛ケ浜窮乏の原因となって、浦役御免、御上からの借金、時には租税免除を申し出ることにもなった。
○船数とその種類
『地下上申・寛保元年』に次の通り。
  2艘  廻船
  200石積より250石積まで、御運送米積みの御米船(櫛ケ浜・久米院内には後背地の本藩領久米村・須々万村等の御米紙津出蔵が3軒あった)
  37艘  いさば(商売船)
  20石積より48石積まで、この船の儀は年分九州表(長崎)へ罷り越し諸商売仕り候
この商売船の数は、周辺の各浦の中でも突出して多い。(ちなみに喜右衛門の父弥兵衛の出身地古市町は7艘)
  45艘  漁船
  右の内九州五島へ参り、イワシ漁仕り分も御座候。

絵図c2絵図c1
防州喜右衛門工夫ヲ似挽揚方仕掛大略下

(3)市兵衛が歩んだ路

以上述べた諸事項を勘案して、筆者は大胆にも次の通りの筋書きを考えた。
船頭を志した市兵衛は、15、6才頃櫛ケ浜の御米船の「水夫」となり、22、3才頃白石島で開竜寺へ参篭した頃には既にこの船の「知工」となっていた。知工になった彼はそれまでに貯めた資金をもっていさば船を獲得して「船頭」となり、五島・長崎に新天地を開いた。櫛ケ浜いさば船団の頭領であったかも知れぬ。

(4)中野清兵衛御米積み船難船救助のこと

浦年寄清兵衛は、市兵衛誕生の3年前の元禄6年6月25日、記録的台風の中、須々万御米紙津出蔵から出された「山代紙御仕入れ米」推定約250石を積んで櫛ケ浜沖に船出待ちをしていた御米積み船を難破から救った。
この台風の強さは『山口県災異誌』に「長門周防の大風雨による諸廻船の破損124隻・海上の死人124人」また『徳山市史史料異変の部』に「大風雨破船死人数知れず」と書かれ、また「大津島の7人墓・虹ケ浜の12人塚」はその強さを現在に伝えている。
この手柄に対し萩本藩及び宍戸家は、それぞれ「米8斗、2俵分」「名字御免」を与えた。救難の手段は、感状に書かれている文言「浦中の者残らず差し出し、綱碇等差し出し、堅固繋留申し候」から推測できる。
なお、この項は、清兵衛の子孫の家から最近発見された65件の文書の中から述べたものであるが、この中野家文書は元禄から幕末までに及ぶ。
市兵衛・喜右衛門は、以上の環境の中で育った。


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