1 喜右衛門及び弟亀次郎の子孫 (1)喜右衛門の孫嘉右衛門来山について
徳修館 | 来山の徳修館長在任期間は嘉永元年(1848)から死去の安政3年(1856)までの8年間であるが、来山が徳修館入り込み稽古を始めたのは、江戸東条一堂塾での勉学を終えて帰国した天保9年3月(1838)頃からである。明治4年宮川視明撰村井良甫墓碣銘に「江都3年帰って徳修館に遇う」とあるから、来山48才の死去までの18年間を三丘で過ごしたことになる。 喜右衛門は、文化元年8月4日53歳をもって栄光に輝いた一生を閉じたが、死期近しと悟った7月嗣子正豊に遺言した。その主旨は、家業と引き揚げの功績で得た「御領分百姓惣筆頭」、名字帯刀の家格を共同事業者であった弟の亀次郎に譲り、正豊は宍戸家に仕官せよとのことであった。そのことは、文政3年10月27日山田時文運平選『村井信重伝』に「一日遺命その子正豊へ曰く、それ人各有能不能、汝才我家の箕裘(家業)を承くべからずなり、汝よろしく禄仕り、それにしたがい家事、則ち悉く当屬我が弟汝叔父なり、我が死近くに在り、汝にのこす以後謀」とある。
宍戸家石碑 | 正豊は、父の喜右衛門を襲名していたが、遺言に従い仕官を志し、「父喜右衛門の功に対せられ」「文化14丑年銭10貫御馳走遂げ喜右衛門一代侍大番通、ニ代目より御蔵元付き」となった。また正豊は、文化7年生まれの嗣子喜内正純に学者への道を選んだ。喜内は「初就徳山某氏受句読、文政丁亥10年遊干萩刻苦10年天保丙申7年転入江府3年」(墓碣銘)と学んだ。その間の天保4年正豊は江戸に上がり、その旅日記を残している。京都までは喜内を同道したのであるが、江戸に着いた正豊は出発前に調べておいた著名な学者をことごとく訪ねていた。
宍戸家大門 | その中に後に喜内が師事することになった東条一堂(江戸後期の儒学者、京の皆川淇園に学び津軽藩儒となった後、江戸神田お玉ケ池で開塾、後福山藩に招かれた)の名がある。訪ねた学者の名前のところに「酒一樽」と読める小さな朱印がおしてある。正豊が多くの学者に受け入れられたのは、すでに江戸にも聞こえた喜右衛門の名声によるものであろう。正豊参府の主目的は喜内の師探しであった。 喜右衛門の遺志はその子・孫によって達せられた。 村井家には、前記山田時文「村井信重伝」の外に嘉永甲寅7年冬10月三丘後学村井純良甫謹識「北海山田先生碑銘並小叙」がある。
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