ヅ−フ日本回想録3
エリザ号再出帆する
1799年5月に船の荷卸し、修繕、再度の荷積み、及び艤装が調い、船長スチュアートは人々の忠告を聞かず、また悪しき季節風をも顧みずに、6月再び海上に出た。ところが7月になって、ちょうど私が初めて日本に渡来したと同時に、彼は帆柱を失って日本に着岸し、次の日港内に入った。
エリザ号遭難図
長崎湾内の フランクリン号とエリザ号 |
私も台湾沖で、かつて前後に例のない程の暴風に遭ったが、彼も3日間恐ろしい暴風に出合って、その帆柱を失ったという。(1799.7.9フランクリン号航海日誌-ジェームズ・デベリュー船長-正午、マストに応急処置をほどこした船を見た。それは、日本からバタビヤへの帰途、台湾沖の暴風雨でマストを失ったスチュアート船長のエリザ号であることが分かった。)
エリザ号再々出帆する
11月になって彼は再航の準備が整ったが、ちょうどこの時私もバタビヤへ帰航するところだったので、私も、私が乗る船(フランクリン号)の船長デベリュ−も同行を勧めたのに聴かず、彼は11月12日すなわち我らより12日前に出航した。
1799年11月ヅ−フ出島混乱の報告のためバタヴイヤへ帰る
1800年7月頃スチュアート別船(エンペラー・オブ・ジャパン号)で再来する
7月16日ヅ−フ再来日する
私が日本に再来したとき、船長スチュアートもまたここにいたので、私は少なからず驚いた。
事務主任レオポルト・ウイレム・ラスが言うには、彼は再び船と積荷とを失い、無一物でフィリピン諸島の首府マニラに到着し、同地の一友人の周旋によって、一小船を買い入れ、新たに船荷を積み込み、負債を償却するため日本に渡来したものであると言う。
御朱印状 |
ワルデナ−ル氏がどうして船を喪失した後、直ちにバタビヤに赴いて、船荷に対して責任を負わなかったのかと尋ねると、スチュアートは只日本における負債を返却した後、そうする考えであると答えた。がしかしこの事件はワルデナ−ル氏の疑惑を引き起こした。船中にはエリザ号の物に違いない廚部があり、したがって破船の際少なくとも廚部が安全であったことを知ったが、彼は喪失を免れたもの一物もなしと明言したのである。この故に彼の目的も手段も、決して潔白ということはできない。私の確信するところによると、思うに彼の目論見は、戦争のためバタビヤから出島へ船が来ないため困っている性質柔弱なL・W・ラスを誘惑して、帰航積荷として銅を獲得し、そうして決してバタビヤには帰らないつもりであったに違いない。
ヅ−フの子 道富丈吉の墓 (長崎晧台寺現存) |
しかし彼の計画は全く失敗した。ワルデナ−ル氏は彼の持ち渡った貨物を売却して、彼の負債の一部を償却し、マサチューセッツという船で、船長ハッチングスの監視のもとに、彼をバタビヤへ送還した。
船長スチュアートはこの事件の審問の間、バタビヤ及びその付近を離れることを禁じられたが、彼は逃走してベンガルに到った。そうして彼は同地の英国人に対して、日本との通商を勧めたようである。
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