2001.05.18金曜日 the daily new shunan ●周南徳山●
五卿登陸記念碑の移設完了
フェリー乗り場から晴海埠頭へ

移設された五卿登陸記念碑

 徳山市の徳山港フェリー乗り場近くにあった五卿登陸記念碑を県が整備している晴海埠頭の親水公園に移設する工事が完了し、海上の船からもよく見えるようになった。
 この記念碑は土台を含めて高さ約5m。幕末に尊皇攘夷派だった長州藩が京都から追放された「8.18の政変」で同じ尊皇攘夷派だった7人の公卿が長州の志士たちとともに都を離れた“七卿の都落ち”にちなむ史跡。幕末・維新に活躍した郷土の歴史を伝えている。
 記念碑のそばにあった浜崎の石灯台も8月か9月には同じ親水公園に移設される予定で、公園整備が完了して市民が利用するようになれば、名所の一つになりそうだ。

後日撮影した同碑、説明板も設置されました

五卿登陸碑
 1863年(文久3)の「8.18政変」後、勤王派の7人の公卿が京都を追われ、3隻の船に分乗して同年8月22日に兵庫を船出して長州に向かいました。1番船には三条 実美、2番船には三条西 季知・壬生基修・四条 隆謌・錦小路 頼徳、3番船には東久世 通禧・沢 宣嘉が乗り込みました。
 3隻とも三田尻まで直行する予定でした。しかし、嵐のために3番船はかろうじて目的地に着きましたが、1番船と2番船は笠戸に一泊して、翌日に徳山の東浜崎に上陸して、陸路を三田尻に向かいました。
 この五卿が東浜崎に上陸したことを記念して、上陸地点(旧東浜崎)の近くに、1913年(大正2)に道源権治によって「五卿登陸處」の石碑が建立されました。徳山港の整備に伴い、平成13年4月に現在の場所に移転されました。
 この石碑は、激動する幕末・維新の歴史を物語る大変貴重な史跡です。
 平成17年3月
  周南市教育委員会


2001.04.10
五卿登陸碑移設
2001.04.11撮影

幕末尊攘派が勢いを得て、大和行幸と攘夷親征を決定したので、公武合体派の雄藩と公家、幕府は朝廷制圧の反撃を謀った。

1863(文久3)年8月18日深夜、中川宮、京都守護職松平容保、公武合体派の公家が参内し、会津、薩摩藩が御所を固め、在京の藩主が召集された。大和行幸の延期、尊攘派公家と長州藩の排除などが布告され、朝廷の実権は公武合体派に移った。(8.18の政変)

このため三条実美、三条西季知、東久世通禧、沢宣嘉、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳の公家7名と長州藩兵は洛東妙法院に集まり、兵庫を経て船で長州藩へ逃れた。

世に云う七卿落ちである。3隻の船に分乗して三田尻港をめざしたが嵐のため内2隻の5名は徳山港へ避難上陸して陸路をとった。
このことを記念して1913(大正2)年「五卿登陸處」と書して立てられたものである。このたび港湾整備のため移設されることになった。

後日撮影、親水公園に移設された五卿登陸記念碑
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