2016/9/17付日本経済新聞 朝刊 真田丸のナゾ 次々に新見解 ゆかりの地で企画展 規模や形状、絵図から推測
1614年の大坂冬の陣で、豊臣方についた真田信繁(幸村)が大坂城の南東に設けた出城、真田丸について新たな発見や見解が相次いでいる。豊臣家と徳川幕府が雌雄を決した戦国期最後の戦いの最激戦地となり、NHK大河ドラマでも話題を集める真田丸。形状や規模など謎に包まれていた実態が徐々に明らかになってきた。 現在、真田氏歴史館(長野県上田市)で開催中の「大坂城真田丸」展(30日まで)。数多くの古文書や武具が並ぶ中で、ひときわ来館者が集まるのが真田丸を解説したパネル展示だ。真田丸の規模は東西280メートル、南北270メートルで、正方形の左上を斜めに切り取った五角形に近い形状だったとする。 解説は国土交通省国土地理院の技官、坂井尚登氏の論文に基づく。坂井氏が根拠としたのが1926年に旧日本陸軍が制作した3000分の1の地図と48年の米軍による空撮写真。現在は残っていない真田丸の堀や崖、土塁などの跡を丹念に検出。広島の浅野藩に伝わり、現存する中で最も詳しい資料とされてきた絵図「摂津 真田丸」(広島市立中央図書館蔵)と照らし合わせた。 また、大坂城と真田丸は幅100〜200メートルの自然の谷で分断されていたとも説く。従来、真田丸は大坂城の一画に築かれた砦(とりで)との見方も強かったが、新説によれば、半ば独立した出城だったということになる。「当時の鉄砲などで大坂城から援護できるぎりぎりの距離。連携して敵を迎え撃つこともできたはず」と坂井氏は見る。 坂井氏の本職は防災用地図制作のための空撮写真の判読など。戦前の地図や空撮写真を活用して古地図を解釈するのは珍しく、新たな研究の手法としても注目を集めそうだ。 外堀から全体像 一方で「摂津 真田丸」以上に詳しい真田丸の絵図が今年、新たに見つかった。松江歴史館(松江市)が市所蔵の史料を再調査する中で、各地の城の絵図を集めた「極秘諸国城図」のうち「大坂 真田丸」と表題が付いた絵図を発見した。
1690年ごろの制作と見られる。すでに真田丸は遺構となり、跡地には寺院などが立ち並んでいた様子が分かる。「摂津 真田丸」と類似する部分も多いが、最大の相違は真田丸の南側にある堀を「惣構(そうがまえ)堀」と記載した点。惣構とは最も外側の堀を意味するため、これが真田丸の全体像と断定でき、これまで不明だった真田丸の規模の推定につながった。 また、南側の堀とつながる傾斜路や、周囲の崖の外側に堀が回り込む構造など、細かな部分も新たに判明した。北側にあった小さな曲輪(くるわ)は真田丸のさらなる出城だったとみられる。この絵図は同館で開催中の「松江藩主 松平直政の生涯」展(11月6日まで)で展示されている。 U字に描かれる 大阪歴史博物館(大阪市)で17日から始まる「真田丸」展(11月6日まで)は「摂津 真田丸」を含む江戸期の真田丸の絵図4枚を展示する。そのうちの1枚「大坂真田丸加賀衆挿(おしい)ル様子」(永青文庫蔵)は、真田丸をU字状の形に描いている。 絵図には大坂冬の陣に参戦した加賀藩の兵士の孫が制作させたという意味のただし書きがある。大沢研一学芸員は「数ある真田丸の絵図で唯一、制作の経緯が明確な史料。真田丸の形状について信ぴょう性は高いのではないか」と見る。 真田丸は本来、大坂城の防御が薄い南側を守るための出城にすぎなかった。これほど大きな注目を集めるのは「冬の陣で徳川方に大きな打撃を与え、天下の趨勢にまで影響した出城だから。今後も実態のさらなる究明が続くのではないか」と、奈良大学の千田嘉博教授(城郭考古学)は話す。 (大阪・文化担当 田村広済) 大坂冬の陣 豊臣方の出城 真田丸 大坂冬の陣の直前、徳川方の南方からの攻撃を想定し、大坂城の南端に築かれた。場所は現在の大阪市天王寺区とされる。緒戦の真田丸を巡る攻防では徳川方が一万人以上の死者を出したとも言われる。冬の陣の後、和議の条件として破却され、痕跡はほとんど残っていない。 |