2013年05月02日the daily new shunan
●新南陽●

西村さんが富田瓦の歴史
聞き取りと貴重な写真も
近畿大民俗研の「民俗文化」に掲載

【写真説明】西村さんと瓦関係の展示品
 周南市福川の新南陽民俗資料展示室職員、西村修一さん(58)の論文「富田瓦について〜山口県周南市」が近畿大学民俗研究所の「民俗文化」第24号に掲載された。旧徳山藩の御用瓦職人に始まって明治以降は富田の経済を支え、戦後は衰退しながらも1978年(S53)まで製造が続いた富田瓦の歴史や製造工程などを往時を知る人の聞き取りなどからまとめている。  西村さんは2004年(H16)から同室の職員として企画展の準備、運営や資料の整理、調査に携わっているが、同室は富田瓦製造用の型枠や鬼瓦など実物の瓦、石こうで作られた型もたくさん所蔵しており、“范(はん)”と呼ばれる石こう型には萩毛利家や徳山毛利家、大内氏の家紋のものもある。  論文執筆のきっかけは2年前に“瓦博士”と称される瓦研究の第一人者、大脇潔近畿大学大学院教授が富田瓦関係の資料がある同室を訪れたこと。「民俗文化」は毎号、1つの県を特集しているが、第24号は山口県を取り上げることになり、大脇教授も「周防・長門甍紀行〜吉川広家・大内義弘と山本勉弥」を執筆したが、富田瓦については西村さんに調査、執筆を要請した。  このため西村さんはかつての瓦製造の経験者を訪ね歩いて港町の三戸窯業の三戸哲保会長らから話を聞いた。三戸さんは昨年、亡くなり、そのほかの富田瓦を知る関係者も高齢化しているため、本格的な聞き取り調査はこれが最後になりそうだという。  論文は30ページ。貴重な写真が見つかったり、遺構の一部も確認でき、大正時代、平野港から積み出される瓦や、江戸時代から使われていた形式のダルマ窯と、その後改良された倒煙式窯や、1962年(S37)に完成した岩国城の天守閣にも富田瓦が使われたことを示す写真も掲載している。このほか同室に保管されている道具や鬼瓦などの実物の写真と解説もある。  また富田は平野港を利用して大津島などから燃料の松材を手に入れたり、遠隔地に製品を運ぶことができたため、瓦製造に携わる家は明治20年代には65軒、明治の終わりごから大正にかけては40軒くらい、戦後も32軒あった。  それがなぜ衰退したかを明らかにすることにも力を入れ、三戸さんの証言から、富田瓦は平野山でとれる瓦に適した山土を使っていたが、昭和30年代後半になってこの土を取りつくしてしまい、良質な瓦を作ることが難しくなったことが一番大きな原因だったと結論づけている。また最後に瓦を焼いた日が78年の6月24日だったことも当時の書類から特定できた。  このほか近代的な技術へ改革できなかったことや、街中に窯があるための公害問題、瓦を焼くのは高熱の中での重労働だが、周辺に大工場が進出して労働力が確保できなくなったとする説も加えている。  三戸さんの母、キヌコさんの、地域経済を支えた瓦製造業を顕彰する碑を積み出しでにぎわった平野港に建ててほしいという願いも載せ、話を聞いた人は皆、自発的に記録を引っぱり出したり、縁者に確かめたりと熱心に協力してくれ、富田瓦の存在を後世に伝えたいという気持ちがにじんでいたとも記している。  西村さんは「聞き取りができるぎりぎりのところで記録として残せてよかった。活用してほしい」と話し、市内の各図書館に抜粋を贈ることにしている。