2013年4月3日(水)the daily new shunan
●周南市教育委員会●

陶氏、毛利氏との関係示す
神上神社(こうのうえじんじゃ)文書を周南市文化財に
南北朝から戦国時代中心に30点

【写真説明】
「某補任状写」=市教委提供
 周南市教委は3月26日、下上の神上神社(佐伯聰子宮司)所蔵の南北朝時代から戦国時代までを中心にした約30通の古文書「神上神社文書」を市文化財に指定した。  室町時代から戦国時代まで山口を拠点に栄えた大内氏の家臣だった豪族、陶氏やその後、この地域を支配した毛利氏など権力者と神社の関係が記された市内では最古級のもので、特に陶氏に関しては残っている文書が少なく、貴重なものとなっている。  神上神社は神武天皇が御東遷の際、仮御殿を設けたことから社殿を建て、神上神武天皇宮と称したと伝わる古い神社。武門の崇敬があつく、天文18年(1549)には陶隆房が社殿を修復し、徳山藩の領地となってからも藩主がしばしば社殿を造営した。  また同市の指定文化財は今回の指定で68件になったが、古文書は毛利氏が陶氏菩提寺の建咲院にあてた文書などの建咲院文書に続いて2件目。  神上神社文書は約30通の一連のもので、最も古い康永3年(1344)の「某補任状写(ぼうぶにんじょううつし)」は橘有平という人物を神上神社の前身の神上本庄寺を管理・統括する惣官首職に任命する文書。花押が足利尊氏のものに酷似しており、南北朝初期の動乱期に尊氏がこの地方の有力な神社だった神上神社を配下に収めるための補任状だったとも考えられるという。  戦国時代、陶晴賢が大内義隆を打ち、さらに厳島合戦で晴賢が毛利元就に敗れて間もない弘治3年(1557)に晴賢が擁立した大内義長も毛利氏に滅ぼされるが、神上神社文書はこの前後の文明17年(1485)の「陶氏奉行人連署奉書」や文禄5年(1596)の「毛利氏検地奉行銀子請取状」などがあり、ほとんどが関が原の戦いがあった慶長5年(1600)までの文書となっている。