1965年 某新聞記事(調査中)
続 古文書は語る
日本初のサルベージ
サルベージ
 日本人ではじめてサルベージに成功したのはいまから165年前。それも外国船の引き揚げという快挙。この偉業をなしとげたのはわたしたち防長人の祖先といったら驚く人も多いだろう。
 話は寛政10年(1798)7月にさかのぼる。当時都濃郡櫛ケ浜(現在徳山市)に住んでいた商人、村井喜右衛門がその人。喜右衛門はかなり手広く商買をしていた関係で年に8ヶ月は長崎に出かけていた。そのころの日本は鎖国時代でわずかにオランダ船のみ長崎入港が認められていた。沈没したのはエリザ号(スチュアート船長)で8000石積みというから積載量は1200tの木造帆船だった。
 10月17日荷物を満載して出航しようと碇を揚げたところへにわかの暴風雨で座礁、救助船に引かれて離礁したが、船底から浸水、木鉢浦土生田浜へ沈没した。地元ではいろんな引き揚げをこころみたが失敗。長崎奉行所は面子にかけても引き揚げようと賞金を出して請負者をさがした。
 喜右衛門が根拠地にしていた香焼島の近くで起きた事故なので気にしていたが、長崎に出た折、10月21日に立てられた、人だかりがしている高札(お知らせ板)を見て引き揚げ請負者募集を知り、10月29日と11月1日2回現場を見て、潮の干満や船の構造を調べて検討した結果、引き揚げの自信がついて、喜右衛門は沈船浮方を長崎奉行所へ申し入れた。
 奉行所は喜右衛門をテストした。「人、資材はもちろん費用も出そう」といったが喜右衛門は「私は金が目当てではないから人と資材だけで結構だ」と商人のど根性を見せたので奉行所も気骨のある男だ。こんな男なら必ずやりとげると見抜き構想をかかせた。

サルベージ
「紅毛沈船浮方」どのようにして引き揚げたか図入りの説明部分
商人、気骨示す
外国船、19日間で浮上

 わずか10日余りでこんな大役を引き受けるような気の早い男だったが仕事も速かった。11月4日には船を引き揚げる方法とその資材を書いて奉行へ提出した。その量がまたすごい。大柱は長さ13尋、廻り6尺余もの2本、長さ8間、廻り5、6尺もの20本、スギ柱長さ6尋もの240本など柱だけで1444本、竹は廻り1尺ぐらいのもの600本、板は長さ6尋、幅5尺、厚さ8寸ものなど60枚、これらをくくりつける綱は()綱、市皮綱、ヒノキ綱が300本、4斗ダル250個、土俵2000俵、タイマツは5尺〆もの3000把、滑車大小合わせて900余個。
 船は毎日60石積み(9t)を75隻から150隻、作業員は600人前後。どうやら柱を船の回りにたて干潮のとき沈没船と引き船を結びつけておき、満潮で浮上すると、すかさず沈没船の下へ土俵をつめる。つぎの干潮でまた同じ作業をする予定らしい。
 この仕様書を奉行所は慎重に検討した結果、年あけて1月4日正式に浮方御免の許可がおりた。
 さっそく準備にうつった。材料集めが20日までかかり21日から船75隻、作業員200人で柱の打ちこみをはじめ、浮上体制ができあがったのは月じまいだった。2月1日を期して第1回の浮上作業は干満の差を利用したことが証明されるように約3尺あがった。奉行所の役人やスチュアート船長、地元の人はみんな目をみはった。
 2、3日目は人も450人、船150隻にふやした。4日目はつり揚げたまま75隻の帆船で引きオランダ新屋敷下の浅瀬につけた。そこでまた同じ作業をつづけたが目安もついたので船、人を減らしついに16日にはエリザ号も浮上して積荷をおろし19日ぶりに作業は終った。
 長崎奉行は「抜群の手柄、紅毛人は申すに及ばず当所一統満足いたした」と銀子30枚をほうびにくれ、スチュアート船長からも酒入りフラスコ14本やごちそうをもらった。喜右衛門は意気ようようと都濃郡へ帰ってきたのはいうまでもない。
 長州藩でもすでに知らせがあったのか、帰るとすぐ藩主によび出され「このたび紅毛船の引き揚げは当藩にとっても比類なき手柄、永代に苗字帯刀を許す」とのことばと領主からは「御領分中百姓惣筆頭にする」と庄屋にばってきされた。
 喜右衛門は村井姓を名のり、紅毛船引き揚げを「紅毛沈船浮方」という本にまとめた。村井家はその後も栄え、現在村井醇郎さんが近いところで酒造業を営み、この本も大切に保存している。


村井喜右衛門