寛政10年戊午10月 阿蘭陀船於唐人瀬沈船
同11年己未正月 防州喜右衛門挽揚絵図上
1987年8月20日furusatokusigahama
村井喜右衛門
櫛ケ浜の人で父は山本弥兵衛、第2子として生まれる。名は信重、幼少より聡明であった。父に従って九州に往来し、よく海路を知っていた。成人して船を購入し、自ら家業(鰯廻船業)に努め、その後、父方の旧姓村井を名乗った。老母にも孝養を尽くし、深く神仏を崇拝し、四方の社寺への喜捨にも進んで応じた。
防州喜右衛門工夫ヲ以挽揚方仕掛大略
寛政10年(1798)10月、長崎港から出航中のオランダ船が暴風にあい船底が岩礁に触れて航行不能、遂に沈没という事件がおきた。
オランダ人船主はその船の浮揚を時の長崎奉行朝比奈河内守昌始に依頼した。奉行は触れ文を掲げ、船の引き揚げを引きうける人を募った。
ところが、これに応じる者はなく、また応じた者も悉く失敗した。喜右衛門は、たまたま商いのため長崎にいたので、その引き揚げに応じた。時に年48才、使用人を率いてこれに臨んだ。オランダ船の大綱を借り、又多くの資材を自費で購入し、いろいろな工夫を凝らし、翌年2月、浮船数隻をもって、オランダ船をこれに繋ぎ、各船満帆に風を受けて曳航し、遂にオランダ人の指示する場所に引き揚げた。
船中の積み荷等は一つも失う事がなかった。その船の長さ23間(42m)高さ幅各6間(11m)。
長崎奉行は、その功を賞し、銀30枚を与えた。幕府は老中松平伊豆守をして、功を賞し、表彰状を与え、船旗(日の丸)を下賜した。寛政12年(1800)オランダ船が来朝し、砂糖25箱を贈る。宍戸美濃守は永世名字帯刀を許した。文化元年(1804)8月4日病没、年53才。
長崎奉行褒賞銀30枚
老中松平伊豆守褒状
朝倉南陵画喜右衛門肖像
賛は山田時文北海
村井喜右衛門