孝女お米

2012.10.12更新


お米は、寛政3年(1791年)徳山(現在の周南市)橋本町に生まれました。父は、日雇いで金左衛門と呼べり。母は、都濃郡河内村の農民茂左衛門の息女でありました。寛政8年お米が6歳の時母を喪いましたので、父の足手まといとなるため母の実家である茂左衛門方に引き取られて養育されたのであります。

享和2年お米が12歳の時、父親が病にかかり、その看護のためお米は、帰宅したのでありますが、天性純孝なので労苦をいとわず、父親が満足するのを自分の楽しみとし、数々の人の真似の出来ないことを行い、父親の孝養にその一生を尽したのであります。

当時この立派な行いを見る者、聞く人、皆感嘆してその心がけを褒めぬ者は、ありませんでした。その時の徳山藩主よりは、数回褒美として米穀や恩賞を賜ったのであります。

金左衛門夫婦の墓

斯くの如く父親に孝養を尽くすこと31年間、お米が42歳の時父親の病いよいよ篤く遂に68歳にて父親は、この世を去ったのであります。お米の哀慕啼哭は、人々の感動するところでありました。

後年お米は、病にかかり重くなるや近所の人々に多年の厚恩をくり返し拝謝し、次に骨は、父母の墓の傍らに埋めるように頼み、後の世までも父親に孝養を尽くさんとする気持ちがしのばれ、孝養の至誠に胸うたれたのであります。

孝女お米墓全景

孝女お米墓墓石

孝女お米墓前燈籠

世話人中屋権右衛門

金左衛門むすめ

時に嘉永五年三月四日、お米は62歳をもって逝去し、法名を「慈順」と謚し、遺骨は、川端町徳応寺境内に葬られたのであります。

この至徳の行に感激し、万延元年、ここ浦石に立派な碑文が建立せられ、碑文は、江戸昌平学校教授安積覚氏の手になり、書は、書道の大家徳山藩中村春秀氏が書かれたのであります。

孝女お米百七年忌を記念して
昭和三十四年四月
孝女阿米顕彰会

孝女お米百五十年忌を記念して
平成十四年四月
孝女阿米顕彰会



「阿米人形」父の病が良くなるようにと四国八十八ケ所の巡礼を
したとき、父を背負ったことを現しています。

孝女、阿米さん
孝女阿米さんは寛政三年(1791)、現在の周南市(旧徳山市)橋本町に生まれました。
六歳の時に母を失い、十二歳の時に父が病に伏したため、孝行心の篤い阿米さんは
父の看病に尽くしました。四六時中、父の病状の回復のみに気を配り、孝養をつくすこと
三十一年に至りました。

阿米さんは六十二歳で亡くなりましたが、今も市内の徳応寺には
父母の墓と並んで「孝女阿米墓」があり、多くの市民が供養に
訪れます。この墓や碑はその功徳を偲ぶ人たちによって守られ、
今を生きる私たちに「親孝行の大切さ」を語り続けています。
弊店では阿米さんの孝心を偲び、その徳を永く伝えんがために、
茶菓として本品をおとどけいたします。
およね餅本舗
もみじや主人謹白

右の阿米石は病父を養うため阿米がだいがらで米を搗くとき
身が軽くてきねが上がらないため、背負った石をかたどっています。

孝女徳山阿米之図至孝
阿米幼体に岩をくくり
隣家の賃搗をなし
病父を養ふ
本朝三十至孝内


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