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JR徳山駅から山陽線上り電車に乗ると、次の駅が櫛ヶ浜。徳山湾と笠戸湾に面し、商業や漁業で栄えたが、周南地区の発展とともに大きくたたずまいを変えた。 海は埋め立てられ、田んぼは店舗や宅地に。それでも、豊かな自然や街並みは残り、地域活動も健在だ。春風に誘われて、早川達也(読売新聞記者)が訪れた。 眺望変れど、にぎわい今も 櫛浜地区の西にそびえる太華山(362m)は、大島半島の主峰。徳山のシンボルとして親しまれ、地区の旧村名にもなった。 頂上まで登山道を歩いて30分余りだが、車道もあり、山頂近くの駐車場まで車で上った。駐車場から二百段ほどの石段を上り、山頂広場に着くと、眺望に目を奪われた。 北は眼下に櫛浜の街並み。その先にコンビナート、市の中心街が続き、西から南には大津島、笠戸島の島々。 東は下松市街から光市の虹ヶ浜などを見渡せる。天気が良ければ大分・国東半島も望めるという。 太華山は1950年、瀬戸内海国立公園に組み込まれ、市が山頂広場を整備した。元日には、初日の出登山が行われ、櫛浜小児童は遠足で登る。 約350本のソメイヨシノが植えられた桜の名所でもある。花見の時期に合わせ、協議会は毎年、山開きイベントを開く。今年は4月4日。山頂広場で安全祈願の後、もちまきやビンゴゲーム、ぜんざいの接待がある。市教委の市民歩け歩け大会が同時開催され、今年もにぎわいそう。 山開きに合わせるように、桜のつぼみが膨らみ始めた。小林さんは「今年も大勢の人に来てもらいたい」と笑顔を見せた。
ここには、地域に根付いた行事が多い。協議会の主催だけでも、他に、1月のどんど焼き、5月の大島半島一周サイクリング大会、7月の納涼大会が行われる。 協議会の企画部会長を兼ねる河本秀則副会長(48)は「協議会を構成するPTAや婦人会、自治会など、地域をよくしようという思いはどこも一緒。 だから、行事の際には各団体が協力し合う体制ができており、イベントをやりやすい」と説明する。 河本さんは「まとまりが良いうえ、新しい住人を拒まない気質がある。イベントをどんどんバックアップしていきたい」と張り切っている。 周南市の東部、大島半島の付け根に位置し、東は下松市に接する。商業と漁業で栄えた櫛ケ浜と、農村の栗屋などが1889年(明治22)に合併し、太華村が発足。 1940年(昭和15)に櫛浜町と改めた。1944年に徳山市と合併し、現在は周南市の一部。 山陽線と岩徳線が分岐、旧国道188号が通る交通の要衝で、海岸部には鼓海・奈切流通団地や徳山競艇場などが立地している。人口約6100人。 |
空撮写真で町の50年紹介 次世代担う人材育成 |
毎年9月4日は「くしがはまの日」。 「くし」の語呂合わせだ。こんな遊び心で、周南市櫛浜(くしがはま)地区の地域おこしに取り組んでいるのが、地域活性化グループの「華雲(かうん)塾」。 制定は昨年。櫛浜コミュニティセンターで、記念行事、櫛浜の航空写真展を開き、戦後間もない1948年から、現在までの空撮写真を並べた。 同塾会計、冨永弘さん(46)を訪ねた。本職は土地家屋調査士。自宅兼事務所に空撮写真を飾っている。 「ずいぶん様変わりしたことがわかります。家の周辺がずいぶん寂しくなったことも」。冨永さんはしみじみと語った。 1948年の写真には、地名の由来とも言われる、クシの背のように緩やかなカーブを描く自然海岸が残っていた。 海に沿って密集地が張り付き、周辺部の栗屋地区には、田んぼが広がっていた。 華雲塾の発足は2000年。30、40歳代を中心に18人。発起人の青木義雄塾長(40)は、結成の狙いを「次の時代を担える人材を育てておきたい」と語る。 活動のテーマは自然、歴史、文化など。「子供のころ、海などで遊んだ経験を自分の子供たちにもさせたい」と強調する。 2001年から毎年5月5日に開催している干潟フェスティバルにも、力を入れている。 埋め立て地の間にわずかに残った干潟で、貝掘りをして遊ぼうという催しだ。地元の親子の参加が多い。 副塾長役の田中浩二代表(46)は言う。「1970年ごろまでは、小1時間でバケツ一杯の貝が取れた。 徳山湾の水質悪化で一時誰も取らなくなったが、今はずいぶんきれいになり、結構取れますよ」 田中さんも地区の将来を心配する。櫛浜中心部は、間口が狭い商店や住宅がびっしりと立ち並ぶ。建て替えが難しく、若い世代が地区外に流出し、少子高齢化が激しい。 田中さんは「櫛浜を住みたくなる場所、子供の声が聞こえる街にしたい。そのために、櫛浜にとことんこだわりたい。櫛浜が元気になれば、周南市が元気になるはず」と夢を語る。 |
先祖の偉業 HPでPR 日本サルベージ業の草分け 村井喜右衛門の生誕地 |
徳山湾と笠戸湾に面した周南市櫛浜(くしがはま)地区。江戸時代、ここから海へと乗り出して活躍したのが、
日本のサルベージ業の草分けと言われる村井喜右衛門(1752―1804年)。海産物の商いで財をなし、1799年、長崎沖に沈んだオランダ船を、知恵や財力を駆使して引き揚げた。 JR櫛ヶ浜駅の南。旧国道188号線から旧本通りへ入ると、蔵元や商店などの古い家並みが続く。喜右衛門の生誕地は、そんな通りにあった。 「オランダ船引き揚げの功績で、喜右衛門は萩の毛利本藩から、武士に取り立てられたんです」。武士になった喜右衛門は、生家から武家屋敷が並ぶ一角へ移り住んだのだった。 喜右衛門の生誕地から少し戻ると、櫛ヶ浜神社の白い鳥居が見える。その一方の柱に「村井市左衛門」の名が刻まれている。 市左衛門は、村井さんの先祖で、喜右衛門の弟の養子だった。「喜右衛門らが残した財産の大きさを感じます」と村井さん。 村井さんは、喜右衛門に関する研究成果をホームページに掲載し、PRに努めている。 喜右衛門の生誕地から南へ200mほど進み、海の方に折れると、目印のトラフグが描かれたのれんを見つけた。周南の海の幸を卸している青木フグ商店だ。 中をのぞくと、いるいる。体長30―40cm。ずんぐりとした独特の体形。小さいひれを動かしながら、浮いたり潜ったり。元気に泳ぎ回っている。 「愛きょうがあってかわいいでしょ。でも、結局は食べてしまうんですがね」。青木さんは複雑な表情で笑った。 シーズンも終わりが近いとあって、今は500匹ぐらい。ピークの12月には、3千匹がひしめくという。ここから、首都圏や関西、下関などへも出荷する。 同社は1962年、別のフグ卸業者で働いていた先代社長の義彦さん(69)が独立して開いた。不況とフグの減少もあって老舗が次々と店をたたみ、今では周南のフグ卸で最も古くなった。 周南はフグはえ縄漁の発祥の地。だからこそ、青木さんは「周南のフグを、県外にもどんどん売り込んでいきたい」と張り切る。 フグ調理師でもある青木さんの下ろしたトラフグ。想像しただけでも、のどが鳴る。今度の冬にはぜひ味わってみたいと思った。 |